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歓びの野は死の色すのことを語る

伝説

 ――女の人生は花のようなものでございます――
 おれがサルヴァトーレの身体のしたで目を閉じて思い出したのは、その言葉だった。
 何にも誰にも貶められずに生きていくことが、女には何故これほど困難なのか。
 それが、わからない。
「エリス、なぜ泣く」
 サルヴァトーレの声が頬に触れた。いや、目尻をつたう涙を舐めとられてはじめて、自分が泣いていたのだと知った。
「そんなふうに、声を殺して泣くな」
 男の手に握られていた刃物が固い地面に落ち、かわってその手で額にかかる髪をかきやられた。瞼のうえに唇がふれ、眉を指先がなぞっていた。
 自分に圧し掛かる男の手から凶器がなくなったことで無意識にからだの力を抜いたが、くつろげられた胸元に手をさしこまれた瞬間、声をあげた。
「やめろっ」
「やめてくれ、ではなく?」
 男の顔に嘲笑がうかぶ。その顔へむけて、真剣に問うてみた。
「頼めばやめるか?」
「エリス」
「おれはここで死ぬわけにはいかぬ。おまえがおれを恨むのはもっともだが、だからといって今ここで復讐されては困るのだ。こんな場所で胸や性器を切り取られては死ぬしかない」
「あんたは私がそんなことを本気ですると思ってるんですか?」
「違うのか? おれは」
 サルヴァトーレの唇が続きを奪い、舌が口腔に押し入ろうとした。拒もうとするおれを嘲笑うように鼻を片手でふさがれ、荒れた呼吸がまざりあう。そこかしこを探るように動く指先に、首筋に顔を埋め、唇を這わせるこの男が何をするつもりなのか醒めた意識の底で不安に思う。
 これは、官能を呼び起こすことを目的とした愛撫だ。
 寵童として黄金宮殿ですごした男に、こんなことをされるいわれはない。
 相手が目を閉じていることに愕然とし、身を捩ってその下から逃れようとすると後頭部が地面にこすれて酷く痛む。呻き声をあげた瞬間、すぐさま身体を捻るように後ろを向かされた。寸前の暴虐と異なり、そろりと髪をかきわけた手の持ち主は、吐息とともに声を落とす。
「ただ切れてるだけじゃないですか。大げさな」
「それでも痛いといっている!」
「縫う必要もないくらいなのに? 頭だから血が多く出ただけで、心配するほどのことはない」
 かつて黄金宮殿で暮らしていたときのような不躾で横柄な応酬におれが緊張をとくと、トトが半身をおこしたおれの肩を抱き、向かい合う体勢で口にした。
「何故、男言葉をつかい男の服など着ているのですか?」
「便利だからだ」
「エリス」
 焦れるような視線から目をそむけ、おれは先ほどの不埒な行為への不満を表明することにした。
「お前を欲情させようと思ったわけではないことは確かだがな」
「……この国に帰って、あんたは幸せになるのだと思っていた」
「トト?」
「エリス、あんたを守れもせず、助けにも来ない男のどこがいい? ヴジョー伯爵という男は、皇帝の寵妃となったあんたを一度は諦めたんじゃないのか? 権力に屈するような男など捨てておけ」
「トト」
「私なら、そんなことはしない。皇帝も月の君も、恐れない」
 サルヴァトーレの双眸に、かつて見たこともないほどの渇望があった。おれは、そのときになってはじめて、この男に己が欲されていると知った。その衝撃は、質問となっておれの口からもれ出した。
「そなた、男色者ではなかったのか?」
 『鶏姦者』という、男色者への蔑称を教えてくれた男は嘲笑でそれを否定した。
「あの黄金宮殿で、あるものがあって、使わないですませられますか?」
「わからん。おれは、男ではないからな」
「女相手のほうが楽だったとも言いませんがね」
「トト」
 正直、おれは混乱していた。とにもかくにも事態を見極めんとして相手の名をよんだ。すると、トトはおれの頬に手を添えて顔を傾けて近づけてきた。おれが顔を背けると、手をはなして口にした。
「私と一緒に逃げましょう」
「逃げる? おまえ、月の君の命令でおれを連れて行くのではないのか?」
「私はあんたに会いたくて来たといったでしょう?」
「こんな仕打ちをされて、信じられるか」
「あんたが逃げるから」
「それもこれもおれのせいか? トト、おまえ、何を企んでいる?」
「企みはありますが、私はあなたを助けに来たのですよ」
「助け? 誰から、何からおれを助けるというつもりだ。助けるというならこの縄を解け」
「私についてきますか?」
「おまえはおれを公国に帰すつもりではないのだろう? ならば、ついてなぞいくものか。おれを誰だと思っている? 黄金宮殿のはしためでなく、エリゼ公国の領主の娘で、《死の女神》の神殿の葬祭長なのだぞ」
 かぶりを振ってこたえると、トトがおれの肩を抱いた。 
「私が無位の男だからか?」
「頭を冷やせ。おまえがどこの誰であろうが関係ない。おれに復讐したいなら、おれがこの国で用済みになったときにしろ」
「エリス、私はあんたのためを想って」
「おれのためを思うなら、この縄をといておれを今すぐ自由にすべきだ」
「モーリア王に嫁がされると知っていて、公都に戻るのか?」
「嫁ぐ?」
 思わずトトの顔を凝視して、おれは自分の失態に気づいた。こんなふうに、この男に情報を分け与えていいものではなかったが、もう遅い。
「知らなかったのですね」
 おれは口をきつく噤んでいた。だが、サルヴァトーレはこちらの焦燥を舐めるように味わいながら続けた。
「あんたは古神殿に戻ったのちに、船でモーリア王国に送り出されます。その船は、公国貴族からの密告で夜襲を受けるよう仕組まれている。そのままモーリア王に献上される予定です」
「公国貴族の陰謀なぞを、何故おまえが知っている?」
「不思議なことは何もない。指図した人間を知っているからですよ」
 おれには、その人間が誰か、おおかたの見当がついた。
「それは、カレルジ銀行の新しい頭取か?」
 トトの切れ上がった杏仁型の瞳も揺らがなかったが、おれはそれをこたえと受け取った。
「サルヴァトーレ、それで、おまえはおれを何処に連れていこうというのだ?」
「西へ」
 おれが首をかしげると、トトは歌うような声でつづけた。
「西の果ての《歓びの島》へ」