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歓びの野は死の色すのことを語る


12

「でも、僕を逃がしたことがわかれば」
「神官様がご存命のかぎり、ニコラさんもアンリさんも俺の助けがいる。お前を逃がしたくらいでふたりは俺を殺したりはしないだろうし、彼らにはそうしようとする奴らを止めるだけの力はある。それに、もしそうなる運命だとしても、俺はこの街の数少ない太陽神の信者のために神殿の火を守りたい」
「ジャン……」
 再び泣き出しそうな顔をしたエミールの肩を、ジャンが邪険なほどの勢いで押した。
「いいから早く行け」
「ジャン、行けない」
「お前、行けないってなんだよ。せっかく俺が助けてやるっていってんだから、逃げろよ」
「でも」
「でもじゃねえよ、行けっつってんだよ。いいか、お前はただでさえ目立つんだから馬には乗るな。念のため偽名くらい使えよ? 手紙が出せれば領主様にも大神官様にも出しておく。今は時間が惜しい。ニコラさんが伯爵家お抱えの騎士たちを連れて帰ってきてからじゃ遅いんだ。わかるな?」
「でもジャン、ジャンを置いて僕だけ助かるなんて」
「なんだよ、俺が死ぬみたいな口ぶりで」
「僕はジャンを心配して」
「どっちが心配してんだよ? いいかげん、立場を弁えろ、子爵家のお坊ちゃま」
 エミールの唇がきつく結ばれた。
「いいか、エミール。ひとの心配する前に自分の命の心配をしろよ?
 俺はただの農民で陰謀なんかと関係ない。だが、お前は違う。
 それにな、お前が助かるかどうかだってこの先のお前次第だろ? 追っ手がかけられたら逃げきれるのか? それじゃなくてもお前みたいな世間知らずはすぐ人買いに騙されて売り飛ばされるぞ」
「そんな、でも、それとこれとは」
「つべこべ言うな。俺はお前に心配されるほど落ちぶれちゃいねえよ。大神官様から指輪を下賜された人間が大陸中に何人いると思う? 俺は自分のことくらい自分で守れるから残るんだよ。貴族のお前より、ずうっと上等な人間だからな」
「ジャン……」
 ジャンはエミールに背を向けながら口にした。
「日が落ちる前に少しでも遠くへ行け。わかってるだろうが、伯爵領には近寄るな。それと、家族や俺と連絡を取ろうとするんじゃない」
「どうして……」
「足がつくだろ? ヴジョー伯爵家から賞金をかけられたら、どうする?」
「でも、じゃあ、ジャンのご領主様にだって迷惑が」
「そこはいい。あの方は間違っても金に目が眩むようなひとじゃないし、何よりも物の道理がわかってらっしゃるからな。裁判もなく復讐のためだけに殺される人間がいるのは、太陽神の信徒としては許されざる行為だと理解しておいでだ。気骨のある方だから、大丈夫だ。安心して無心しろ。
 俺はあの方の期待を裏切ったが、お前が帝都で立派な神官になれば、面目が立つ」
 エミールは、ジャンの後姿を黙って見つめた。もうどんなに声をかけても彼が振り返らないと気づき、エミールは血のついた両の拳をにぎりしめ、頭をかるくふってから膝をついた。トマの遺骸を抱き起こして顔を汚す血を片手でそうっと拭い、その頬を掌でくるみながら両の瞼のうえに唇を落とす。
 それからしずかに立ちあがったエミールは、先ほどの頑是無い赤子のように泣いた彼とは違い、いつもの、まっすぐで聡明な自己を取り戻しているように見えた。
「わかりました。僕は帝都に行きます」
「ああ、そうしろよ」
 ジャンが、彼のほうへ向き直った。
「ジャンも、来ますよね? 資格試験受け直すといったのだから」
 ジャンはその言葉には瞳を伏せた。それから、考え事をするように庭を見て、彼をまっすぐに見つめ続けて返答を待つエミールへと頷いた。
「約束ですよ?」
「わかったよ。わかったから早く行け」 
 ジャンが追い払うようにエミールの肩をまた押した。すると、エミールはその手をつかんで大神官聖下にでもするように接吻した。ジャンが肩を震わせ目を見開いて手を引っ込めると、彼はついと顎をあげて言った。
「ジャンは嘘をつくときいったん下を見てから話し出す。気をつけたほうがいいと思います。尋問されたら見破られる」
「エミール、お前」
 眉を寄せたジャンが続けようとした言葉をエミールが引き取った。
「心配される身分の僕ですが、僕も、ジャンが心配です。むろん、こんなことを言える立場ではないですが、神官さまのお命も」
 私は、自分が死に瀕していると思い出した。
「ジャン、必ず逃げて。ヴジョー伯爵家はこの機に乗じ、エリゼ公爵家を追いやりこの都を奪還することも可能でしょう。とすれば、この都は戦場になります」
「エミール、やっと、頭が回ってきたようだな」
「ええ。おかげさまで、少しは冷静になりました。ですからジャン、巻き込まれる前に逃げてください。火の番は、そのあと幾らでもできます」
 ジャンが皮肉っぽく片頬で笑い、斜めに顎をあげて返した。
「わかったよ。俺も、頃合をみて逃げる。お前も逃げ切れ」
「はい」
 《あなたの行く道に光がありますように》。
 彼らはそう口にして互いの両手をしっかりと固く握り合ってから背を向けた。