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歓びの野は死の色すのことを語る


 私は執務室へ向かう前に厨房に寄ることにした。この時間なら、作男のジャンかアンリ、またはニコラが料理をしているはずだった。さまざまな香料の混ざり合った羹の匂いが鼻をかすめ、今日の料理はニコラだと見当をつける。ジャンは食べる物に拘らず、アンリは贅沢を戒める。エミールには料理番を任せていない。エミールは子爵家の長子らしく肉は鮮やかに切り分けるであろうが、煮炊きが得意とは聞いたことがない。上級職を目指そうというのだから覚えておいて損はないが、神官職の試験を終えてからでも間に合うだろう。
 トマはすぐ後ろをついてきたが、戸口の前で礼儀正しく足をとめた。城勤めの騎士たちは下賎のものの居場所として厨房に立ち入るのを嫌うが、自給自足の生活を営む神殿騎士たちは気にしないものと思っていた。
 振り返ると彼は、お話があるでしょうから、とこたえた。
 互いに微妙な間をとって微笑みあい、私はそこで扉を閉めた。
「ルネさま、お帰りなさい」
 予想とは違い、そこにいたのはアンリだった。私は扉の外にひとがいると目顔で知らせ、彼はひょいと肩をすくめてわかっていますと微笑んだ。その腰に長剣が吊るされているのを見咎めると、苦笑が返る。
「この格好で外を出歩いたわけじゃないですよ。あなたのいない太陽神殿は年寄りと子供ばかりで頼りない」
「ニコラを年寄り扱いすると叱られるぞ」
「まあ、わたしと一回りしか離れてませんがね。昔はおっかなかったのに、今じゃすっかり腹が出て使えないおやじになったと言っただけですよ。それに、公国の姫君が攫われるような物騒なご時世に無腰でいるなんてできません」
 アンリの翡翠色の目に皮肉の色は浮かんでいない。かといって、事態を憂えている様子もない。いつもながら淡々と事実を述べているといいたそうな顔だった。
 《黄金なす丘》にあるヴジョー伯の城代を父に持つアンリは、私の扶育官であったニコラとともに、私の「お守り」のために神殿にいるそうだ。従騎士も小姓もそばに置かず一人歩きする私へと、城代が無理やり送って寄越した者たちだった。
 もっとも、命令などなくとも付いて来たと彼らは口に出すだろう。二人からすれば、私はなんとも頼りないのだそうだから。
「ルネさま、ところで外にはどなたが?」
 聞き耳を立てられれば、いくら声を落としていても話の内容は伝わるかもしれない。
「神殿騎士のトマという若者を待たせている」
「若者? 新入りですか?」
「帝都から来たらしい」
「ふ~ん、そんな色物なら噂になりそうなものですが、知らないですね。まあ昨今、神殿騎士の出入りは激しくて、正直わたしも把握しきれていない」
 トマがエミールの従兄、いや実の兄であると、彼が自分から話していないのであれば知らせないでおいたほうがいい。そう断じて、はなしを変えた。
「みなの様子は?」
「ニコラは川向こうの館へ救援を呼びに行ったところです。おっつけやってきますよ。エミールは火の番で、ジャンは図書室にいます。二人には何も話さないほうが安全でしょう。城代には事の次第を知らせてあるのですぐにも姫君救出に出立できますよ」
「私はレント共和国へ母を送り届けると仰せつかったのだが」
 その言葉には、アンリは片頬で笑い抜けぬけと口にした。
「建前は大事です。都の外で、我々を止められるものはいないでしょう」
「確かにな」
「というわけで、ニコラは勿論わたしも俄然やる気ですから」
「待て。ニコラはここに」
「それこそ茹で蛸になって怒りますよ?」
 斜めに見返されたが、私にもこの神殿を預かるものとしての立場がある。
「それではエミール以外、火の番をする者がいなくなってしまう」
「ジャンに任せましょう。彼は神官資格を持っていたのですから、自覚を持つにはいい機会です。むろん、ここの守りのために騎士を配置します」
「しかし」
「しかしとは? この一大事に何をおっしゃるつもりですか。あなたの花嫁になる方が攫われたんですよ?」
「それは、宰相の仕組んだ狂言だ」
「知ってますよ、そのくらい」
 私はついさっきまで知らなかったと口にするのは憚られた。だが、アンリはこちらの顔を見てすぐに言い継いだ。
「知らなかったのは、あなたと、エリス姫くらいです」
「そうなのか?」
「この国の貴族たちがモーリア王にエリス姫を差し出そうと目論んでいたことはあなたもご存知でしょう。儲け話から外されたうえに戦争が怖いと臆病風を吹かせ、女神の寵児を国外に投げ出すっていうんですから大した度胸ですよ。わたしは怖くてできません。
 現実的な証拠では、いかにも怪しい塩舟が古神殿横の水路に繋がれていましたからね。今夜にでも、夜陰に乗じてお連れするつもりなのでしょう。新神殿に生え抜きの女官たちが集められてきてますし、宰相閣下の動きを張っていれば、だいたいのところはつかめます。
 モーリア王は《至高神》という唯一神を崇める立場です。エリス姫は信仰上の理由で『結婚』には首を縦に振らないでしょう。モーリア王のほうとしてはエリス姫を改宗させて王妃に迎えたいとお望みかもしれないですが、そうはいかない。それでも、あちらで迫害にあっている信徒たちを救うための和平使節になってくれと宰相や貴族たちに泣きつかれれば、エリス姫は行かざるを得ませんよ。
 立場を重んずるオルフェ殿下は、そんなへりくだった使節に妹姫を遣わすのを嫌がるでしょうが、あの方の意見が通るとは思えない」
 アンリはそこで小さく鼻で笑い、つけたした。
「実のところ、わたしもオルフェ殿下と同意見ですがね。エリス姫を送り出すのは外交手段として下策です。といって、あなたを派遣する愚は犯したくない」
「私はそんなに役立たずか?」
「そうともいいますねえ」
 幼馴染の気安さでうなずいた男に吐息をつく想いで名前を呼ぶ。
「アンリ」
「ヴジョー伯爵ともあろう方が素直に牢に繋がれてどうします? 奥方様の密偵から報せを受け取ったニコラが憤死しそうになってましたよ。わたしは腹を抱えて笑いましたけどね」
「あの場では、ああするより他は」
「あなたを消したいと思う人間は多いんですから、讒言には徹底抗戦するのが常道でしょう? 神明裁判なんてされたら勝てませんよ? いいかげん、人の好いふりをするのはやめてください」
「ふり、なのか?」
「あなたと我が一族の命運は一蓮托生ですから、できることなら狡猾であっていただきたいと願います。ですが、清廉潔白なあなたも嫌いではありません。ただし、その場合でも、御名だけは穢さないでいただきたいのですよ」
 彼の白い顔に、僅かばかりの後悔がにじんで見えた。わたしを一人で行かせたせいでこうなったと悔やんでいるのだろう。
「おまえも酷く怒っているように思えるのだが……」
「いえいえ、わたしはほんとに笑い死にそうになりましたからね」
 薄ら笑いをうかべてしらばっくれた彼は、すぐさま表情を変えた。