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歓びの野は死の色すのことを語る


 礼拝堂を出て、私は早足で前をいく母の隣に並び、声を落として尋ねた。 
「母上様、いったいこの準備は」
「宰相閣下から帝国の姫君をお迎えにいく件は前から依頼されていました。少々日が早くなっただけのことです」
「それは存じています。そうではなくて」
 母の緑色の瞳が私を射竦める。
「あなたはもう事件の真相が見えているはずです。いい加減、諦めなさい」
「……エリス姫を、ですか?」
 ついと顔をもどした母は、足をとめた私を振り返らずにいった。
「他人を思い通りにする欲望を捨てなさいといっているのです」
「私は」
「姫様はあなたと一緒にいることより、違う道を選んだのです。あの方を自分の腕の中にとどめておけるとお思いですか?」
「そんなふうには思っておりません」
「ならば、お役目を果たすことに専念なさい。
 身一つでおいでなさいと言いたいところですが、さすがに着の身着のままというわけにはいきませんね。騎士たるもの、馬車に乗るわけにもいかないでしょうから、替え馬の手配もしておきました。あなたが心配しなければならないものは何もありません。すぐさま必要なものだけ揃えて南門に来るのです。よろしいですね?」
 母の一族は優れた傭兵隊長を出したこともある武門の家系だ。馬の手配までしてあるのなら、「騎士」としての準備に不足はない。甲冑まで運ばせているのであろうから、私が「心配しなければならない」のは、太陽神殿の神官職としての威儀だけなのだろう。
 母は私がうなずいたのを認め、頭を高くあげて歩いていった。姫様の行儀見習いの教師であったのだから当たり前だが、その後姿はやはり何処かしらエリス姫を思わせた。
 侍女たちの姿が廊下の向こうに消えてはじめて、横で、黙って控えていたトマが空色のマントを差し出しながら、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「実は、オルフェ殿下が行方不明です」
 そういった相手の顔を声も出せずにみると、彼は真剣な表情でつづけた。
「行き先はわかっているのですが、隠し扉がどうやって開くのかわかりません。壊していいものとも思えず難儀しております」
「それは……地下通路のことですね」
「ええ。ご存知ですか?」
「それが、在るという事は。だが、あれは公爵家と騎士団長、または古神殿にいらした大教母ぐらいしかご存じないものだ」
 公爵様にお出まし願っても無理でしょうかと問われ、この街の外の城にお住まいの方を思った。馬で半日としない距離だが、お迎えに行ったとしても、用意周到なオルフェ殿下は私室をとっくに改造しているだろう。
 私は差し出されたままのマントをようやく受け取り、それを肩に羽織った。それからふと、先ほど思い出したことをこの若者に尋ねたくなった。
「この地底に、不死の人々が住んでいるという伝説を知っていますか?」
 笑われるかと思ったが、若者は生真面目な声でこたえた。
「もちろん存じています。皇帝陛下ユスタスが百歳を過ぎても長く生きたというのは、その方たちのおかげだという話です」
「……ユスタス陛下の墓がないという、あの伝説も?」
「ええ。なんでも船に乗って西の果ての島にお出かけになったということですよね? この国に育った子供なら誰でも知っていますよ」
 最後だけは、かわいらしいえくぼが見えた。このひとは何を言い出すのだろうという、そんな、笑みだった。
 ただし、私の疑問は違うところに飛んだ。
「あなたは、この国の育ちとは違うのでは?」
「エミールから何か?」
 少しだけ表情がかたくなったのは、彼の出生の秘密に触れるからであろうか。
「伯爵様、わたしが何者か怪しまれておいでですか?」
「正直にいえば、そうなります。ことばに少し、帝国風の響きがある」
 子爵家の長子に生まれたエミールに、彼より年長の兄がいたことは知っている。子爵が結婚前に城勤めの女に産ませた腹違いの兄が、格下の家にもらわれていったことがあると聞いた。いつも快活なエミールに不似合いなくらい、さびしげな声だった。その後、兄とは会ったことがないという話だ。
 太陽神を信奉する帝国では、正式な結婚を重んずる意向が強い。伝説ではいくらでも浮気相手のいた神は、それでも、「法」と「秩序」を尊んだ。嫡出子かそうでないかで財産分与はもちろん家督相続にも歴然と差がついた。
 身分が高ければ高いほど非嫡出子の生まれる確率も高く、現実には愛妾の子が国を継ぐこともないわけではない。無能な嫡子より、出来のいい子供やまた愛情のある女の産んだ子供に地位や財産を与えたいと思うことも道理とはいえる。
 たしかにこの若者の顔はエミールにそっくりで、血の繋がりを疑うことはできない。
 エミールの父親である子爵は、息子を太陽神殿にあずけるほど親帝国派だった。もちろん、他家に譲られたからこそ、《死の女神》の神殿に従事するということもあるかもしれない。
 だが、アラン・ゾイゼ騎士団長の生え抜きである証拠の真新しい黒衣を身にまとった若者が、一方で副騎士団長とともに行動していたことには疑いを持つ。
 私の沈黙に、彼は背筋を伸ばし、靴音を響かせてすすみでた。そして、腰に佩いた剣をさしだしてきた。
「抜いてください。その標をご覧になっても、まだ疑われますか?」
 刀身に刻まれているのは、帝都にある女神の神殿をあらわす紋章だった。
 神殿騎士は、どこでその地位を得たのかがわかるよう、紋章を施された剣が支給されている。
 私が目を眇めると、彼はさらに一歩ちかよって、小声で囁いた。
「帝都からお供して参りました。エリス様の連絡係です」
 つまりはエリス姫が新神殿に派遣した密偵だということなのだろう。だとしたら、ここで身分を明かすこと自体、役に立っているとは思えない。人に恵まれなかったのかと姫様らしくない迂闊さに不安をおぼえたが、あの方には時間も余裕もなかったのだと思い直す。
 剣を受け取った若者は、私の顔を怯えたように見あげた。
 それは、疑いが晴れたかどうかたしかめる視線で、従うべき主君を見失って思い悩む幼さをあらわにしていた。また、あの老練な面構えの副長は、この純朴な若者をていよく厄介払いしたのだと気の毒にもなった。これで私にまで逃げられたら、彼はいったいどうなるだろう。
 そう考えたくせに、私はエリス姫救出を諦めたわけではなかった。
「正装を取りに神殿に戻ります」