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歓びの野は死の色すのことを語る


 殿下はそれを聞いて難しい顔をした。それから小さく息を吐いて、あたしの顔を見て、こういった。
「ぼくは、好きな相手を傷つけることなく愛することのできる人間ばかりだとは思いません。ですが、そういうふうに考えられる貴女は是非ともそのままでいていただきたいですね」
「……それ、馬鹿にされているようで腹が立つんだけど」
「馬鹿にしているわけではないですよ。ただ、エリスは本当に貴女を大事にしたのだと感じただけです」
 そのことばには、胸を衝かれた。 
 あたしは、幸か不幸か帝国の皇女に生まれてしまった。
 でも、正式な結婚によって生まれた娘じゃない。結婚する前にあたしの父親であった皇太子は死んでしまったから。
 母親はその後、女戦士たちの女王になった。
 たしか、誰も殺さずに女王になった初めての女だ。
 それが許されたのは、あたしという特別な娘の存在のせいだ。
 他にも女王に相応しい女たちはいたけれど、女戦士の島国にとって、皇帝陛下の血に繋がる娘を得たってのは大手柄なのだ。母親は皇太子である父より十二歳も年上の、すでに四人の子供を産んだことのある女だった。
 ちなみに、相手はみな違う。
 女戦士は多情だという噂だけど、あれはあながち嘘じゃない。
 すくなくとも、あたしの母親は誰かひとりと結婚して縛りあうよりは、そのときそのときの相手を選び取るほうがむいていた。
 あたしはそれを嫌った。
 たったひとりの好きなひとと一生添い遂げたいと思う。
 我ながら、なんて生娘らしい感性だと笑いそうになるけど。
 年頃になったあたしをどう料理するかは、あたしの母親である女戦士の女王の意向だけでなく、皇帝陛下の気持ちひとつといってもいいくらいだ。
 エリスはあたしの教育係として、母よりもずっと真剣にあたしの将来を考えてくれた。いつだったかそういったら、彼女は肩をすくめて微笑んで、サンドラ、ひとを信じすぎるのは考えものだと叱られた。善意や好意をそのまま受け取ってはダメだということらしい。
 他人のために手を尽くし心を砕く人間が、そのままその当人にとって素晴らしい存在であるとは限らない。
 エリスはどうも、そういうことを言いたかったらしい。
 あたしだって、そのくらいのことはわかる。
 そこには支配欲というのが存在するだろうし、甘ったるい憐憫や同情もあるかもしれない。
 でも、エリスに限ってはそんなことない。
 そういう風に返したら、彼女はひとつため息をついてこたえた。
 馬鹿ね、サンドラ。わたくしは女としてまっとうな幸福に恵まれていないから、あなたにそれを叶えてほしいと押し付けているだけよ。
 それは、今の殿下のことばと見事に重なった。
 あたしは気を落ち着けようと呼吸をととのえて、先ほどから気にかかっていたことを問うてみた。
「殿下は、誰か好きなひとはいないの?」
「いません」
 即答だった。
 馬鹿なことを聞いたと自分自身で思ったのに、相手の声が想わぬほど真剣で困ってしまっていた。
 アラン・ゾイゼとは愛人関係というのが相応しいような付き合いだ。騎士団長がどう思っているかはわからないけれど、殿下は自分の不手際を彼に押し付け始末してしまおうと考えていたわけだ。
 この、なよやかともいっていいほどの美貌の持ち主には相応しくないほど、ううん、いっそ似合うほどの冷淡さ、冷酷さだと思う。
 そして、彼はあたしが自分の顔を見つめていることに気がついたらしい。すぐさま取り繕うように、薄い肩をすくめて続けた。
「ぼくは昔から惚れっぽくて、誰かがそばにいてくれないと寂しいと思う質なのです。子供を生んでくれた女性もいましたが、両親と兄の説得で城を離れてしまいました。ぼくは彼女と子供を守るようなこともできなくて、その後すぐに流行り病でなくなったと聞きました。まさか殺されたとは思っていませんが、城にいれば手当てはできて、死ぬことはなかったのではないかと悔やみます。
 ですが、本当にぼくが悔やまなければならないのは、彼女のかわりも、その子のかわりも、ぼくが得ようとすればまたできるだろうかと、あまりにも真実に過ぎる愚かしいことを真剣に悩みぬいたことです。
 エリスは、彼女がぼくをいいように騙しているだけだといいましたし、たぶん、そのほうが正しいでしょう。両親も兄も同意見でしたし、他の人たちも同じように口にしていました。でもぼくには必要な人でしたし、ぼくにはただ黙ってそばにいれくれる人がいれば、それでよかったのです。
 ぼくとエリスは違う人間です。
 エリスはルネ・ド・ヴジョー伯爵を恋い慕い、ルネもまた彼女に自分を捧げていますが、ぼくにはそういう情熱はない。もちろん、そんな運命もない。
 ぼくは、そうしたことをエリスにきちんと告げるべきだったのでしょうし、その他のことも含めて、話し合わないといけないのです」
 あたしは、何もいわなかった。何もいわれないことを期待されていると思ったし、エリスとの、または伯爵との確執は、彼らが解消することだ。
 それを、オルフェ殿下は知っている。
「アレクサンドラ姫、ひとまず一度、地上に出ます。誰かがこの標を削り取ったのかもしれない今、下手に動くのは危険です」
「エリスはどうなるの?」
「アランの居場所の検討はついています。ぼくが指示を出せば神殿騎士たちをさしむけることができる。もちろん、ヴジョー伯爵も。今ならまだ、間に合うでしょう」
「あたしとの約束は?」
「貴女の身柄を拘束して帝国を脅そうとは思いません。貴女の複雑なご身分を思えば帝国軍を動かせるだけの力がないというのは事実でしょうから、ぼくは約束を反故にしても損はない」
 あたしは平らな声を保ったまま返答した。
「エリスを救出するには少人数のほうが有効だといったよね? あたしもそう思うし、アラン・ゾイゼを説得できるのは主君であるあなたしかいないんじゃないの?」
「アランはぼくのいうことなど聞きませんよ」
「さっきと違うことをいわないでよ」
「この地下通路に手を加えるような男のことなどわからなくなっただけです」
 オルフェ殿下もまた、落ち着いた声だった。
 いや、ひどく不安な様子だった。
 彼はその手に通路をしめした地図を描き終えていた。
 あたしはそれをちらとのぞきこみながら、これだけのものを記憶だけで描いた人物への賛嘆と、そして、その彼が怯えている意味を察して肌寒くなっていた。
 そう。あたしたちはどうやら、「道に迷って」しまったわけでない。
 そうじゃなくて、「あるべき道を失ってしまった」というほうが、正しい――