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「貴女も、逃れたかったのではないのですか? エリスの護衛などに身をやつして、皇女というこの上もなく高い身分から逃げ出そうとしたのではないですか?」
「もうそれはやめた。だって、エリスに断られちゃったから。
あたしはエリスが皇后になって陛下の子供を産んでくれればいいと思ってた。たぶん、陛下もそう思って最後に結婚してくれって言ったのに、エリスってば、嬉々として国に帰りますって返すんだもん。
あれはちょっと、陛下が可哀想だったな」
あたしが笑うと、彼は困ったように眉をさげて尋ねた。
「エリスは堂々とお断りしたということですか?」
「たぶん、本人は求婚されたと思ってないんだろうけどね」
「……それでよく黄金宮殿でつとまったと冷や汗をかくようですよ」
「ん~、そうともいえるけど、黄金宮殿では尊大な人間が有難がられる。
30も年の離れた美少女に骨抜きにされる皇帝ってのは、爛熟した文化を誇る帝都ではもてはやされたし、実際、親族を殺して帝位を継いだ強面の印象ばかりだった陛下をただの人の子に引き摺り下ろす狙いはあった。
あたしはさきの皇后を知らないからなんともいえないけど、何より、ほんとに似合いだった。
まさしく、光と闇の一対に見えた」
それは、奇跡のような眺めだったと思う。
長身の陛下には、エリスくらい上背のある女のほうが釣り合っていた。
あたしは、光と闇の神がふたりでこの世を作ったように、あのふたりに新しい世の中を作ってほしいと思っていた。
でも、エリスにはその気がなかった。彼女は頑なに初恋の人を忘れなかった。
「ですが、実際エリスの愛人だったのは」
「月の君と呼ばれるカレルジ銀行頭取だね」
あたしは皮肉っぽく笑った。
「ねえ、どうして伯爵にそのことを教えなかったの?」
その問いかけに、オルフェ殿下は口を閉ざした。まあ、理由はいろいろあるだろう。
「そういえば、この国はずいぶん援助してもらったんだよね?」
「ええ、だいぶ助かりましたよ。モーリア王国への貸付より、たぶん、この国のほうが額は多いでしょう」
エリスが月の君から金を引き出させたのは知っている。
それだけじゃない。帝国へ収める税まで引き下げさせようとして、さすがにそれは通らずに、ただし、一年遅れての徴収を約束させた。
寵愛をかさにきてやりたい放題だと陰口を叩くひともいた。
けど、現実的には、モーリア王国寄りに傾きがちなエリゼ公国を帝国へ繋ぎ止めるためには有効な手段だった。
「ぼくはたしかにそのことを秘密にしましたが、伯爵は、それを知ろうとしなかったのです。怠慢ですよ」
殿下は苦々しく吐き捨てた。
実は、あたしもそう思ってた。
エリスが幸福であってほしいと望むのはいい。でも、そうでなければ自分が不幸だと思いつめて、それによってエリスを追い詰めた。
だから、あたしは伯爵が嫌いだ。
自分で考えることをやめてしまった男になんて、興味がない。彼は、自分の都合のいいように事実を歪めて受け取ってしまう心弱いひとだ。
それに、あたしは、月の君がかわいそうだと思っていた。
そんなことを口にしたことは一度もないけど、でも、本心は、そう。
陛下はいい。
あのひとは、いつだって自分の本心を語っているのか語っていないのかはわからない。たぶん、あれが全部本音なんだと思うけど、でも、そんなのどうだっていいくらいやりたい放題だから。
でも、月の君は違った。
まるで、自分のこころと反対のことばかり口にしてしまう子供のようなひとだった。
たしかに度が過ぎるほど嫉妬深かった。あたしは何度もそのことで抗議したし、護衛の件も含めて幾度もやりあった。
彼は、エリスの身につけるもの全てが彼以外からの贈り物でないと許せなかった。エリスが触れたものをすべてを手許に置いておかなければならないと思ってでもいたのかもしれない。あれでは息が詰まるし、愛されていると思えるはずはない。
けれど、月の君をあんなふうに不安に陥れてしまったのは、エリスがあまりにも頑なで、あまりにも故郷を懐かしがり、自分の想いだけを大事にしすぎて、相手に優しくなかったからだ。
そういったら、サルヴァトーレは笑った。
誰かをこころに住まわせてしまったら、そんなふうな余裕はなくなるものだと。
あたしには、それは、わからない。
たぶん、わからなくてイイ。
「新しいカレルジ銀行の頭取は、この国への貸付をやめる心積もりだそうです」
オルフェ殿下のことばは、ようやく先ほどのあたしへの質問と重なった。
「あたしは彼と結婚する気はないよ」
「最有力候補とお聞きしていますが」
「……カレルジ銀行を皇族の支配下におくのに都合がいいってのはわかるけど、そうはうまくいかないよ。彼は皇族を恨んでるし、父親ほどの賢明さはない」
不用意な発言と思われるかもしれない。でも、このくらいはみなが知っていることだ。その証拠に、暗がりに白く浮かび上がる殿下の表情に動きはない。わかっていて問われているのだとすれば、本意はきっと。
「エリスの暗殺を心配している?」
「ええ。《死神トト》という男は、帝都の《死の女神》の神殿から激しい非難を受けているのにも関わらず、この国に来ようとしています。彼はたしか、エリスのためにひどい処罰を受けたはずです」
「……仲のいい、友達、だったんだよ」
あたしの声が震えたので、彼はそこではじめて眉を寄せた。
「ふたりとも、あたしの教師だった。黒髪で、優美な細面で、きょうだいみたいに似てて、いっつもあたしのことで喧嘩して……でも、仲はよかったの。ほんとうに」
あたしは、その事件のことを直接には知らない。知らされなかったというべきだろうけど。でも、だいたいのところは、わかる。あたしだってもう子供じゃない。
「トトがエリスを恨んでいたとしても、エリスに危害を加えることはないよ」
「何故」
「だって、トトが本当に好きなのはエリスなのよ?」