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歓びの野は死の色すのことを語る


 暗闇の中、あたしはオルフェ殿下の隣で膝をかかえて座っていた。
 何故なら、ふたりは道に迷ってしまったからだ。
 ううん。
 これから、道に迷おうとしているというほうが正しいかもしれない。
 古神殿と呼ばれる場所のすぐちかくまで来て、殿下は標がなくなっていることに気がついた。たしかに、今まで見てきた文様がそこでなくなっていた。
 もと来た道を戻ればいいと口にすると、殿下はゆるゆると首をふった。
 何かがおかしいというのが彼の言い分で、あたし自身もそれは感じた。
 この異変にも、ふたりして恐慌状態に陥るわけでもなく、今後のことを話し合おうとしたところ、殿下は座りこんであたしを見あげた。
「書くものをお持ちですね」
 たしかに、持っていた。
 携帯用のインク壷と羊皮紙をさしだすと、彼はカンテラを近くにおいて地図を描きだした。あたしは、それを黙って見つめた。言うことはなかった。
 彼は今、この都の秘密を明かそうとしている。
 あたしも、彼のいうままに手を引かれてここまで走ったわけじゃない。
 彼が指でたどる文様を、ひとつひとつ目で確認した。なぞるまでしては不審を表明することになるとしなかったけど、明かりを近づけて見たのは事実だ。
 それは、殿下を信用しているとかしていないという問題じゃない。
 このあたし、アレクサンドラという人間が生き残れるかどうかを保障する行為だ。
「もしもぼくに何かあった場合、この街の鍵を貴女にあずけます」
 彼はペンを持つ手をはなさずに、告げた。
 あたしはそれを笑って聞き流すわけにはいかなかった。今でも、儀式的にすぎるといわれそうだけど、門の鍵を渡すという行為は街の支配権を譲り渡すことを意味する。
 まあ、無事に地上に戻れるかどうかっていう問題はあるんだけど。
「それ、宰相やら公爵やら他の貴族は納得しないでしょう」
「しませんが、ぼくにはそれだけの権限がある」
「エリスじゃなくてあたしに渡すの?」
「エリスは受け取りませんよ。戦争を拒む女ですから」
「いざとなったときの指揮権は、伯爵でも他の誰かにでもとらせればいいよ」
「多くの国々で女性に王たる権利がないのは、戦場に出られないからです。それは、貴女のほうがよくご存知でしょう」
 あたしは口をむすんだ。
 彼が何を言い出すつもりなのか察すると、自分の将来を考えることにならざるを得ない。それが、今のあたしはこわかったから。
 でも、彼は話をずらした。
「帝国は、よくもエリスをこの国に帰しましたね」
「国家予算まで知ってるような女をっていう意味?」
「そう、ですね」
「ただで帰したわけじゃない。あたしたちみたいな護衛という名の監視付きだから許されたわけ」
 彼の苦笑は、もっと深部を探るような気配があった。
 エリスが何を知っていて何を知らないのかは、あたしにだってわからない。
 殿下は小さく肩を落として息をついたあと、ひどく言いづらそうに話した。
「エリスが石女だから返されたというのが、この国の判断です」
 いちばんの寵姫といわれながら、エリスは陛下と同衾したことはないはずだ。でも、月の君とは違う。
 彼には他に子供がいる。正妻との間に男の子がいるのだから、なにか身体的な問題があるとすれば、エリスのほうだと考えるのが妥当だろう。でも。
「あたしは、《死の女神》の神殿には、その手の技術がたくさんあるって聞いてるけどね」
「……あるでしょうね」
 今度の吐息は、何故か切なそうだった。
 女戦士たちが男たちから好奇の視線を受けると同じく、《死の女神》を信奉する女たちにも男たちの怪しい疑念や好色な興味はつきまとった。
 エリスはそれをいっそ愉しむかのようにふるまっていたけれど、実際のところはわからない。この国に帰ってきてすぐ髪を切り男物の服をきたエリスは、本人は楽になったと喜んでいたようだけれど、あたしからしたら痛々しかった。もちろん、エリス自身からすれば、そう思われるところまで考え抜いた上での苦肉の策だとこたえると思う。
 現実的には、金銭上の理由と他者から忌避されたかったからだ。
 帝都帰りの寵姫という、美しくきらびやかで淫蕩な印象が男たちにはびこっては、エリスは自分の思うような仕事ができなかっただろう。
 エリスが神殿のどれだけの記録を読み、まとめ、推理したか、あたしにはわからない。たぶん、それはあそこに帰ってからのことではなくて、帝都にいたあいだに写しを取らせていたのだと思う。
 古神殿の居室にはいったきり日がな一日そこにいて統計を組み立てる彼女に、宰相ゾイゼがあわてて資料を持ち去っていった。
 そのときにはもう、ある程度、エリスのなかには何らかの確信があったはずだ。 
「僕はエリスがこの国を継げばいいと、小さな頃からいってきました。兄はよく出来た人でしたが、《死の女神》の恩寵がなかった。エリスにはそれがある。たとえ、その姿形においてだけでも、彼女以上に《女神の娘》たるに相応しい者はいない」
 それは、わからなくはない。
 賢く健やかであれば君主に相応しいというわけじゃない。
「貴女の好きな方はどんなひとですか?」
 また話がずれて、あたしは少々面食らった。誰かと聞かれるなら表向き用のこたえはある。また、問われる理由はわかる。あたしの結婚相手は帝国の未来とこの国のそれにとって、重要な意味をもつ。もちろん幾人か、婚約者候補はいた。
「なんで、そんなこと聞くの?」
「貴女みたいな女性が好きになる男に興味があるとしかこたえられませんね」
 掠れた笑い声はあたしを皮肉っているようだ。けど、どうしてか、不愉快には思わなかった。それでも他に話すべきことはある。
「アラン・ゾイゼが迷っているならって言ったよね? どういう意味?」
 あたしがこたえなかったことを彼は気にとめる様子はなかった。
「アランは女に甘い男なのですよ」
「そんなのが理由になる?」
「彼が、このエリゼ公国というものを見捨てる気がないならば、エリスを殺したり他国へ売り渡したりすることはないでしょう」
「それって」
「貴女の言うとおり、エリスこそが、この国の支柱だからですよ。それがわからないほど愚かな男ではないでしょう。忠誠を誓うべきはぼくではないと、彼も理解するはずです」
「……君主という責任から逃れたい?」
 非礼にも、殿下は憤ることもなく微笑み、そしてこちらを見た。