細かな文様
12
それからおれは長持ちの中にあった革袋の口をまずあけた。
においを嗅いだかぎりでは酸っぱくなった安物の葡萄酒で、なんの香り付けもされていないようだ。唇を近づけると唾液で口腔が潤うほど酸味がつよい。すでに酢になってしまっているかのようだが我慢すれば飲めないこともないだろう。
毒物の恐れは払拭したが、今ので喉の渇きは癒された。
パン種に毒をいれる面倒はかけないにちがいないと黒パンをつかみ、あまりにも固くて閉口した。焼いてからずいぶん日にちがたっているのだろう。羹にでも浸して食べるべきものだ。
そんな贅沢なことを考えて、おれは自分がへこたれていないと満足した。
食べ物に文句をいえるくらいなら、大丈夫だ。
そうして、口のなかにパンの欠片を放り込み舐めるようにして味わいながら、アレクサンドラ姫に危険が及んでいないかと考えた。
おれが攫われたと知ったなら、半狂乱になるだろうか。いや、サンドラはそんなに子供ではない。今頃あの小さな頭とからだを懸命に働かせているに違いない。
ルネは……頭を抱えて後悔ばかりしているだろう。行かせるのではなかったと、そればかり想って己の不甲斐無さに憤っていることだろう。
おれは、自分の恋人のことをそんなふうに考えて笑った。
おれが攫われたのはおれの不始末だ。ルネのせいではない。
もっと用心しなければならなかったものを、狙い済ましたかのようにいちばん安全であるべき場所で裏をかかれて拉致されたのだから。
おれはルネであろうと他の誰であろうと、守られておとなしくしていられるような女ではない。だからといって、ルネのことを頼りにしていないわけではない。
頼りにしているからこそ、大事なサンドラを預けてきたのだ。
おれは、そのことを彼に伝えることができなかった。
だが、10年前に帝都に旅立つときから、ルネは自分ばかり責めていた。
帝都からの命令を彼がどうにかできるはずはないのに、おれに降りかかるこの世の悪いことはすべて自分が原因であるとでも思っているようだった。
たしかにおれはルネと離れることが辛かったが、オルフェに重荷を背負わせるのはもっと嫌だった。幼いころからオルフェはおれを大事にしてくれた。ひとの死を予見できる能力があるともないともわからぬあいだ、他の家族はおれを敬して遠ざけたが、いちばん「死」を身近に感じていたはずのオルフェだけが、おれを恐れず、妹として可愛がってくれたのだ。
ただ、おれはもしかすると色々なことを読み違ったのやもしれぬ。
おれは、そのことを考えるのではなく、自分の居場所が何処であるか探索しようとした。こうなった原因をつきとめるより、生き延びる道を探し出すほうが賢明だろう。
少なくとも、皇帝陛下はそうするに違いない。
過ぎたことを考えるなとはいわないが、未来へつなげる可能性を探れと。
一昼夜も眠っていたとは思えない。
馬で運んだとしても、まだ都のそばだ。川船に乗せられたのだとしても、同じだろう。太陽の正確な位置がはかれないが、だいたいのところ、こちらは東だろうか。斜面したには小川が流れていて、おそらく船着場が城砦に設けられている。このあたりの豪族の館としてはもっともありふれた作りになっているはずだ。
おそらくこの部屋は奥方の寝室であろう。夫婦ともに同じ寝室をもたないとなると、けっこうな身分の家だ。
公都近郊の貴族たちの住まいは幾つあっただろうか。
資財帳を思い浮かべようにも、この10年の不在は大きい。帰国してから半日と宮廷で過ごさなかったせいで、貴族たちの動静をうかがう情報が少なすぎる。そもそもおれは、この国の貴族社会に2年ほどしかいなかったのだ。
館は同じ場所にあっても、それが使われているかどうかわからない。
否、使われていない空き城のほうが都合がいいわけだ。
とりあえず、あの窓に打ちつけた板をはずすか。
外に出られるかどうかはわからぬが、ここがどこだかわかる手がかりがつかめる可能性は高い。亜麻布もあるし、裂いて結んで繋いでいけば下りられるやもしれぬ。
こんなところで不安に身体を縮めていてもしょうがない。
おれは立派に泳げるのだから、用水路でもなんでも飛び込んで逃げたほうがましだ。
おれはちぎったパンのかたまりが柔らかくなったものを無理やり嚥下した。塩味さえもろくにしない、素っ気ない。 それでも残りは先ほどの絹にくるんで隠しにいれた。さもしいが、口に入るものがあるのはありがたい。
見渡しても部屋に金属は何もないので、腰帯の銀の留め金を外して釘の頭と木地のあいだに埋め込んだ。一枚外せば あとは手がかかる。爪が剥がれようと、やり遂げようと誓った。
その瞬間、おれの後ろで扉の開く音がした。