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歓びの野は死の色すのことを語る

細かな文様
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「何故、神殿騎士を手配しないのですか?」
「それは伯爵もお察しのことでしょう」
「エリス姫の御無事を確認すること以上に優先すべきことがありますか?」
 それを聞いた宰相は、声をあげて笑い出した。
「ゾイゼ宰相」
 私の視線に、彼は笑いを納めて頭をさげた。
「失礼。私個人としてはそう思いたいと願いますが、公国の将来を憂えればそうとは言えませんな」
「あの方を犠牲にして、いったい何を守られるというのですかっ」
「あなただとて十年前、御自分の将来と領民のことを思い、エリス姫を諦められたのではないですか? またつい先日は、モーリア王国の王女との婚姻でさえ了承した身ではありませんか? 
 今は、この国の存亡がかかっているのです。
 私はオルフェ殿下が進められたこの取引自体をとやかく言いたくはありませんな」
 エリス姫……!
 私は拳を握り締め、手を振り上げそうになるのを堪えた。ここで彼を殴り倒して闇雲に城を出ても勝ち目はない。
 まだ、秘密がある。宰相が私に隠していることが。
 それが何か、つきとめてからでも遅くはないはずだった。
 宰相は瞳を眇めてこちらを見た。私の憤激がおさまるのを待ったように見えた。
「伯爵、いや、日の神の神官殿、私が思うに、われらが葬祭長、次期大教母ともなられよう方には真実、女神の寵がおありでしょう」
「あの方はたしかに《女神の娘》ではありましょう。ですが、か弱い女性であらせられるのですよ」
「騎士道の花と讃えられる伯爵にはおわかりいただけませんでしょうな」
 含みのあることばに私が声をあげそうになると、宰相はそれを制して続けた。
「騎士は派遣しておりませんが、手は打ってあります。私は葬祭長の無事を確信しておりますからな。お察しでしょうが、攫っていった相手が殺すつもりなら、その場で殺せる腕がある。しなかったのは、生かしておきたかったからでしょう」
「あなたが関与してないという保障はないと存じますが」
「葬祭長を殺したりしては夢見が悪い。私は使える人間をむざむざ抹殺させるようなやり方を好みませんよ」
「あの方を利するようなことをいう人間を信じられますか?」
「信じていただかなくともけっこうですが、命令には従っていただきたいですな」
 彼が両手を打ち鳴らすと、先ほどの御付が私の剣を恭しく捧げ持つようにして入ってきた。
「ヴジョー伯、あなたに帝国の姫君をお迎えにいく母上様の警護をお願いしたい。レント共和国へと発ってください」
「エリス姫をお救いするのでなく?」
「あなたに出て行かれると、拙いことになると思うのですよ」
「私が素直に命令に従うとお思いですか?」
「オルフェ殿下からのたっての頼みでも、お断りになられますかな?」
 私がことばに詰まると、もうひとりの御付が書状をさしだしてきた。私は殿下の命令状をたしかに目にした。
「愛する方をお守りするのは剣だけとは限りませんよ」
 宰相は武器を手にすることのない《死の女神》の神官とも思えぬ堂々たる扱いで御付の手から剣を取り上げ、それを私に授けた。
 いつの間にか礼拝堂の祭壇近くに立っていた母は、我が家に代々伝わるその剣をちらと横目にして、すぐに踵を返した。
 大理石の床をすべる衣擦れの音が、夢のなかでエリス姫の去っていく後姿を思い起こさせ、私は呻き声をこらえて頭をあげた。
 するとそこに、先ほどのトマという若者が立っていた。宰相の視線を受け、彼は私に騎士の礼をとった。
「お供させていただきます」