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歓びの野は死の色すのことを語る

細かな文様

 おれの足は動かなかった。
 狼藉の予感に指先が冷えた。なにか不機嫌があるときの彼は容赦なく、ただ啜り泣くだけの無力さを曝けだすときにひたすら怯えた。絖の艶やかな光沢や滑らかで快い感触は、苦痛と交じり合って記憶されていた。
 それでも、おれは何でもないような顔で返した。

 書きものを片付けるまでお待ちください。
 あの男への返事はわたしが代筆してやろう。
 けっこうです。
 そう云うな、恋人というより保護者のような書きぶりだが、そなたが心配するとおり、初花は他の男が散らしていったと教えてやればよかろう……

 そのことばは戯れにしても行き過ぎだった。
 おれは彼の手から手紙を奪おうとして加減をあやまり、一枚の紙が裂けた。
 床に散らばった数枚の紙片を見て、その瞬間、罠にはまったと知った。破り捨てろと命じられれば、おれは絶対に応じなかっただろう。

 それと同時に、ルネから手紙がきていることを彼は知らなかったのではないかとも考えた。少なくとも、中身をあらためるよう手配してはいなかったのかもしれない。
 だとすれば、おれは囲われ者にあるまじき不手際を見せたことになる。
 おれは黙ってそれを拾い、そのまま乱雑に重ねて両手で捻りあげ、目の前の男にさしだした。

 どうぞ、火口にでもお使いください。

 彼はさしだした紙を受け取らず、おれの手をとった。握られた手の冷たさに、おれは無意識に肩を揺らした。

 エリス、わたしを不機嫌にさせるな。
 それは失礼をいたしました。てっきりそういうのがお好きなのだと思っていましたので。

 ちらと瞳をあげた男の顔に、おれはすましてこたえてやった。
 月の君と呼ばれるに相応しい淡い色の双眸が光り、おれの顔のうえを彷徨って、ゆっくりと伏せられた。

 何があろうとおまえを手放すつもりはない。

 抱き寄せられて耳に囁かれたことば。
 それは恋人同士で交わされるなら喩えようもなく甘い約束かもしれなかったけれど、おれにとっては掛け値なしに終身刑を言い渡されているようなものだった。
 おれは睦言を返すことさえせずに、ただ相手の思うままになった。
 目をとじて、相手の欲望が尽きるまで耐えればいい。
 何か口にせよと乞われれば、そのとおりにくりかえした。そのくらいは何でもないことだ。
 初めてのとき、月の君はおれを玩具だといいきった。
 おれは怯まず、あなたにとって玩具ではないものがこの世の何処にありますか、と問い返した。
 彼は薄い唇をひらき、声なく笑い、おれを褒めた。
 そういえば、彼に褒められることだけは好きだった。
 たしかに、おれは彼の玩具だったかもしれない。
 寝台のうえだけでなく、宮廷という舞台でも。
 人間として、女としての尊厳を失ったおれは、羞恥も禁忌もすぐに放擲した。
 それと比例して、着飾ることをおぼえた。
 おれは身の回りのすべてに気を配り、好きなものだけで埋め尽くし、どうしても愛することのできない男を迎え入れた。
 頭の片隅で、その何もかもを用意した男の腕から逃れるにはどうしたらいいかとそれだけを考えていた。そしてまた、この執着は、ただ彼が自分の置かれてきた立場をここにくりかえしているだけだとも思っていた。
 その冷静さが彼を余計に激昂させるのだと理解していても、おれにはどうしようもなかった。
 それでいて、ほんとうに真実どうしようもないことだったのかと考えることすらしなかった。
 人間誰しも、相手が悪いと言い募っていられれば、己のこころは平安だ。
 おれもまた、自分の弱さや怠惰を月の君に押しつけて、彼をただ恨んだり憎んだりしていればよかった。
 そうした日々をすごすうち、おれはいつの間にか己自身をも手放した。
 そのことを教えてくれたのは、他ならぬアレクサンドラ姫だった。