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おすすめのことを語る

文学の泥棒について
鈴木創士
ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』
http://www.gendaishicho.co.jp/news/n3537.html
何度目だって感じかもだけど
「剽窃とは一種のポエティックである。人にもよるが、人の文章、それも「ぶよぶよの大頭ども」(イジール・デュカス)が結局は絶対に書けないような形で誰かの文章をかっぱらってくることは、ひとつの詩の技法である。あたりまえの話だが、不良は不良行為に習熟しているものである。もちろん剽窃の対象としてはぶよぶよの大頭の書いた文章を盗んでもいっこうにかまわないし、剽窃の相手は人間が書いたものである必要すらないのだが…。」
「文章家は縫い子でもある。モードは儚ければ儚いほど完璧なのだから、ココ・シャネルは自分のデザインを盗まれても一切動じることがなかった。言葉、色、光、音、石も木も青銅も生きている芸術家のものだ、ルーヴルを略奪せよ、くたばれ、オリジナリティー!(バロウズ)、というわけだ。だがココ・シャネルもエニグの本も含めて、これほどのオリジナリティーにはめったにお目にかかれるものではないではないか。違うだろうか?」
「その前にあえて言い添えておくなら、誰が書いたかということをここでみんなにばらしているわけだから、これは引用には違いないのだが、広く平たく言えば、まったく別の文脈とリズム的錯乱のほうへ人の文章をかっ攫ってしまおうというのだから、そして著者の涙ぐましい思考の筋道、その緊張の糸を無残にも断ち切って、オデュッセイアの魔女の煮こごりみたいにいかがわしい別の釜に入れてゆでて冷まして人の文章をゼラチンみたいに固めてしまおうというのだから、引用もまたひとつの立派な剽窃なのである。もちろん皆さんがよく目にする立派な著者の立派な「学問的引用」には、自分の貧しい文章を権威づけるためであることが見え見えの場合があり、これほど恰好の悪いことはない。」

ちなみに、この本にはパスカル・キニャールも当然のこと、言及されている。
それから、わたしがこの本をはじめて知ったのは、鈴木氏のこの紹介でなく、たしか、博覧強記の覆面作家・殊能せんせーの本の豊崎社長の解説文だったかと思う、例の「ボルヘスを殺せ」のくだり、だったかと(たぶん、ね ひっぱりだせば確認できるけど、それこそこういう記憶に頼って「引用」することもまた、面白いモノだと思うので残す)
そしてもちろん、わたしはいつでも「略奪者」である。出来得る限り、エレガントにやりたいと願ってはいるが。
「ぬすめぬすめもっとぬすめ、おかしおかされてこそ文藝だよ」というのが本音ですが、
「盗む」ためにはそれ相応に読まないといけないのだ、そして盗まれるためにもまた、読まれないといけないのだ。なるほど、「作品」が命長らえるって、大変なことね、と今ちょっと他人ごとのようにおもったわw
この往還が「書く」こと「読む」ことの愉悦の最たるもののひとつ、だとわたしはおもう。