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歓びの野は死の色すのことを語る

細かな文様

 子供のころ、おれが不安に思ったのは、眠っているあいだに死んだらどうしようということだった。
 どうするもこうするもないのだが、そんなふうに思い続けたことがある。
 《死の女神》の司るものにふさわしく、眠りと死はとてもよく似ていた。
 大教母のいうのには、それは東と西に背中合わせに顔をむけた双子のようなもので、片方には朝がきて、片方には闇が訪れるというただそれだけのことだった。
 おれはまさにそのとおりだと感じ、それゆえに恐ろしくなった。
 《死の女神》の娘なのだからそんなものを恐れずともいいだろうにと自身に憤りながら、怖いという想いを捨てきれず、ふたつの異なった感情に引き裂かれて眠りにつくことが多かった。
 それはもっというと、死ぬのが怖いという気持ちより、自分の知らないあいだに闇に落ち込んでなくなってしまうのが許せないという憤りだった。
 眠りについたまま目覚めない死を望むひとが多いなか、おれはそれだけは何があっても避けたいと、叶わぬことを願って息苦しくなっていた。
 それでも、おれはまだ本当に幼くて、辛くとも悲しくとも、また恐怖に脅えて震えていようが、たしかにきちんと眠れたのだ。
 その点において、子供とは実に他愛無い存在だ。
 そうやって眠れなくなったのがいつからなのか、おれはきちんとおぼえている。
 さきの皇帝の皇子――月の君に、添い臥して寝るようになったときからだった。
 彼が寝物語にするはなしはいつも決まっていた。
 西の彼方にあるという、《歓びの島》のこと。
 この大陸の西の海のむこうには、真実ほんとうの《歓びの島》があるそうだ。
 老いもなく病もなく、鳥が啼き四季の花が咲き乱れ、果実がたわわに実を結び、見目麗しい神々が厭かず暮らす永久の島――
 女神エリーゼもかつてはその島の住人で、そこの女王だった。
 そこまでは、伝説と同じ。
 ところが、彼のはなしはそこからが違う。
 女神はその島を自分からすすんで出たのではなく追放されたというのが、彼の言い分だった。
 彼のはなしは変わっていて、女神ははじめから死の女神ではなく、あることが起きるまでは《歓びの女神》であったという。
 さらには、女神がさいしょに交わったのは太陽神ではなく、月の神だというのだ。
 月の子を孕んだ女神は、自分の産んだ子が知恵も足らず100年と生きない不完全な生き物であることを恥じ、その不出来な子達を海に流したという。
 それが「人間」だというのだ。
 そして、神ならぬものを生み出してしまった女神は《死の女神》となり、その島に住む権利を失い、追放された……
 初めて聞いたときは怖気をふるったものだが、ときが経つにつれ、彼のいうことはもっともなようにも思いはじめた。
 太陽神と睦びあい、慈しみに満ちて人間を生み出したとされる女神よりも、筋が通っているように思えたのだ。
 そんな不可思議な伝説を語るのだから、いうまでもなく、彼は月神の信徒だった。
 帝国の皇子に生まれながら月の神を崇めるようになった男に、おれは身体を開いた……
 その夜から、おれは自分が子供ではなくなったのだと知った。
 男を知ったからではなく、深く眠れなくなったせいだ。
 今から30年ほど前、皇帝陛下が即位したと同時に、皇位継承権をもった皇子やその親族たちは一斉に帝都から追いやられた。反逆の意志のあるものは近衛騎士団に無言のうちに闇へと葬り去られたという。それは黄金宮殿で養うにはあまりに多くなりすぎた皇族を縮小するための策でもあった。
 ところが、すでに銀行家に貰われていた月の君だけはその難を逃れた。
 当時まだ生後一年とたっていなかった月の君は、長じて彼の兄たちの幾人かが陛下の命令によって殺されたと知っても眉ひとつ動かさなかったという。
 同時に、自分の無事を感謝したわけでもなかった。ただし、何もわからぬ子供でいるのは生きていくのに不利だと悟ったそうだ。
 月の君は13歳で年上の妻に長男を産ませ、その後は、役目を果たしたとばかりに黄金宮殿に引きこもった。
 陛下は月の君の才知を讃え、重く用いた。
 副帝の名で彼を呼ぶものがいたくらい、宮廷での立場は大きかった。
 おれはその力を頼みにして、彼の庇護を受けたのだ。
 黄金宮殿の外側で暮らすのでなく、その中心、皇帝陛下のいまする宮殿の真ん中にいる安全と威信を買うために。