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歓びの野は死の色すのことを語る


 表向き、アラン・ゾイゼはレント共和国との国境付近まで姫君を迎えにいったことになっている。
 けれど実際は、エリスを何処とも知れぬ場所へ拉致したのだ。
 ぼくの妻となる帝国の姫君は今、レント共和国に保護されている。
 報告では、盗賊たちは死んだものはあるが、捕らえられてはいないそうだ。けれど、当然のごとく追手はかけられた。
 姫君一行を救ったのは狩の最中の貴族で、共和国は帝国とこの国に思わぬ恩を売ったことになる。
 ぼくは、事の次第によっては『エリス姫誘拐犯』であるアラン・ゾイゼをルネに始末させるつもりだ。
 アランに野心があったこと、それは誰もが認めている。
 そしてまた、古神殿の敷地内にいたエリスを攫って城外に出られるのは、この街の地下都市を熟知する神殿騎士以外にありえない。
 あの時点でルネはそう、結論づけていたはずだ。
 けれども、まともな神殿騎士なら《死の女神》の娘たるエリスを誘拐するなど天地が覆るほどの大罪だとも思っていただろう。
 どの道、いま、この国でアラン・ゾイゼを追えるものがいるとすれば、ルネ・ド・ヴジョー伯爵だけだろう。
 または、アレクサンドラ姫か。
 宰相閣下は黙殺するはずだ。うすうす娘婿の挙動を不審に思っているのに、口出しをしたことはなかったのだから。
 そろそろルネに顔を見せにいったほうがいいだろう。
 そして、エリスがアラン・ゾイゼに攫われたと彼の前で泣いて見せよう。みなの前ではいえなかったと、そう口にして彼を解放すれば、彼は血眼になってアランを追うに決まっている。
 むろん、問い質されることは間違いない。けれど、いくら何を聞かれても、ぼくはほんとうに何も知らない。
 ぼくは、信頼していた愛人アランに裏切られた可哀相な被害者でしかないのだから。
 そうしたぼくの無能ぶりは、彼もとうに知っていることだ。
 椅子から立ち上がろうとしたと同時に、ぼくの肩は椅子の背に押しつけられた。
「あ……」
 緑色の瞳に射竦められたぼくは、弱々しい声をあげただけだ。
 赤毛の姫君がぼくの首を左手で押さえつけ、短剣を閃かしてこちらを睨んでいた。
「声をあげればこのまま刺す」
 喉許に押しあてられた短剣に、自分の目が中心に寄るのを感じた。
 どうしてここに入ってこられたかは、訊いてもいいだろうか。
「隠し通路の件は誰に教わったのですか?」
「『死の都』の地下都市を建造したのは偉大な皇帝ユスタスだ。言い伝えどおりだったんで、驚いたね」
「なるほど、それはうっかりしてました」
 まさか帝都の皇帝陛下の末裔に、この街の地下都市についての伝承が伝わっているとは思わなかった。あの複雑な迷路を抜けてきたとなると、記憶力もいい。また、いうまでもなく大胆極まりない。
 ぼくは少し力を緩めてほしいと思ったが、それはいわなかった。
 ただ、ぼくの喘ぎに気づいた彼女は眉をひそめた。
「叫ばないと約束すれば、手をはなす」
「ぼくが約束を守ると?」
「あたしがこの国で謀殺されたと皇帝陛下に知れたら困るよね?」
「そうかもしれませんね」
 気がつくと、ぼくを押さえつける手と腕は擦り傷だらけだった。その手で汗を拭ったのか、彼女の顔は赤黒い血の掠れと土埃に汚れていた。それなのに、その顔は極度の緊張と興奮であでやかに照り映えて見えた。
「これくらい、大した傷じゃないよ」
 ぼくの視線に、彼女が微笑んで肩を押し付けていた手をはなした。むろん、剣は去っていかなかった。けれどぼくはその身体に不釣合いに大きく無骨な手が誰に似ているか思い出した。大教母だ。
「どうしてこんなことになったのか、残らず話してもらおうか」
「こんなこととは?」
「しらばっくれるのはいい加減にしなよ。エリスを何処にやったのか」
「知りません」
「知らないはずはない!」
「本当に、知りません。ぼくが、知りたいくらいなのですから」
 ぼくは今度こそ、真実を語っていた。
 それと同時に、これを話し終えたときがぼくの最期かと覚悟した。
 意外にも、その想像は心地よく甘美なものだった。この心臓がその生来の欠陥によって止まるより、誰かに刺されて死ぬほうが、「生きた」という気がするに違いない。