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おそらくは、帝都でも、アレクサンドラ姫が帝国の姫君であると知るものは少ないにちがいない。そしてまた、皇帝はそれを公表する気はないのだろう。いや、あのむすめ本人がそのことを隠匿すべく振舞っているのか。
それは何故か。
理由はいくつも考えられるが、今はおこう。
あの姫君に関しては始めから、生きて、傷をつけずに捕らえろと指示はだしてある。
こちらが痛手をくうのは覚悟のうえだ。
あんな仕事をさせるのだから、陛下もまさかあの姫がまるきり無事ですむとは思っていないだろう。
それにしても、あれほど丁寧で細かい目配りをする人物が、ずいぶんと無茶苦茶なことをしてくれる。
目の前の床には、砕け散った硝子と木っ端が幾つもいくつも落ちていた。乱れた髪が鼻にかかるのを払おうとして、頭上にかかる布切れに手が触れた。
それは、ルネのマントだった。
視界を覆われたのがこれゆえかと振り落とすと、細かな破片がそこいらに散らばった。
マントに目をおろすと、その持ち主の落ち着いた歩みが見えた。
ぼくは立ち上がれなかった。膝が、無様に笑っていた。なので、そのまま相手がしゃがむのを待った。
「殿下、話してくださいますね?」
ルネの問いに、ぼくは首をふった。
目を合わせられず俯いたまま、残っている騎士たちに命じた。
「伯爵を、地下牢へ」
騎士たちの逡巡に、ざわりと空気が揺れた。
先ほど手紙を手にした男が進み出て片膝をついた。黒く重たげなマントが床をすべる音がして、声が思ったより近くで聞こえた。
「殿下、恐れながら、ヴジョー伯爵におかれましては」
「ぼくの命令がきけないのか?」
「いえ、決してそうでは」
ルネが立ち上がった。
「他ならぬ公子のご命令です。従いましょう」
ルネの長靴が硝子を踏む音がした。
ぼくは、しゃがみこんだまま、少しも乱れのない足音が遠ざかるのを聞いた。
膝の震えはおさまっていたけれど、起き上がる気力もなかった。
ぼくは彼のマントを掴もうとして、やめた。
ふと、顔をあげると、先ほどの騎士がまだぼくの横に膝をついていた。
たしかに若いと思ったが、まだ二十歳になっていないだろう。丸顔に散ったそばかすが、いかにも少年めいていた。
「早く行くといい」
ぼくがそう口にすると、彼は自分でもわけがわからないといった風情ではねるような勢いで立ち上がった。それから、まだ座ったままのぼくを不安げに振り返った。
「殿下、立てますか?」
「ぼくはあなたにほっておいてほしいと願わないとならないのですか?」
少年のような騎士は頬に朱をのぼらせて謝罪の言葉を述べてそこを辞した。
ようやく一人になったぼくは、膝をかかえてつぶやいた。
立てるが、立ちたくないだけだ。
そう嘯いて、ぼくは胸の内側であのひとの名前を口にした。
たぶん、ルネは彼女の名前を呼ぶことはないだろうと思いながら。
彼の頭のなかには、今、エリスの名前しかないだろう。
ぼくはこんなときにも攫われた妹の身ではなく自分の身が大事で、その不安をとうに亡くなった女に縋りついて癒してもらおうとする。その情けなさが、いかにも自分らしかった。
涙はでない。
泣いている時間はぼくにはない。
生き残るために次の手を考えなければ。