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歓びの野は死の色すのことを語る


 首筋に冷たい刃物が触れて肌は粟立ち、後ろ手にされた腕がぎりぎりと軋み、堪えようのない呻き声が唇からもれた。
 神殿騎士たちは唖然として、小娘に手もなく捕まった哀れな次期領主を凝視した。
 ぼくは、羞恥に死にそうになった。
 これならいっそ、一突きに刺されたほうがましだ。
 そう思って暴れると、
「動くな」
 彼女の、あたりを制する凄まじい一喝に、ぼくは意識をとられた。
「エリスもいない今、殿下に何かあったんじゃこの国の先はないよね?」
 アレクサンドラ姫がそういって凄んだ。
 ぼくにはその表情が見えなかった。
 そのまま彼女はぼくを引き摺るようにして窓辺へと歩いた。
 みながどんな顔をしているのか見ようとすると、頭を小突かれた。
 ぼくは、今日の今日まで、こんな無礼な仕打ちを受けたことがない。こめかみで血がドクドクいっているのが聞こえそうで、呼吸が激しく乱れた。
「アレクサンドラ姫、殿下を離してください!」
「伯爵、それは無理」
「その方は無理のきかない御身体だと貴女もご存知でしょう」
「あいにくあたしは公明正大な騎士じゃないんでね。その手紙を運んだあたしの仲間をまず解放してくれないと」
「応じるな!」
 ぼくは、自分の声がみっともなく震えていることに苛立った。
「応じるんじゃない。エリスを攫っていくような輩のいうことをきく気はない」
「だから、あたしはやってないっていってるじゃない!」
 小娘の声が甲高く耳を聾す。
 ああ……。
 ぼくだって、それが彼女たちの仕業ではないと知っている。
 それでも、ぼくはこの芝居を続けないとならないのだ。
 ぼくは力を振り絞って反論した。
「この神殿のもの達はみな、貴女がエリスを帝都に連れて行きたがっていると、そう思っていたようですが」
 姫は舌打ちした。
 どうやら外にも騎士たちが集まりはじめたようだ。
 鼻先をかすめた花の香りに彼女の体温があがったことを感じて、おどろいた。
 その瞬間、ぼくの腕を掴む力がわずかに緩んだ。
 隙をついて身体を反転して捕まえようとすると、強い力で突き飛ばされた。
 目の前が暗くなるのと同時に窓枠そのものが壊れる音がして蹲る。姫君が、そばにあった椅子を振り回したのだとわかった。
 追えという怒号と待てという制止の声が幾重にも混じり、男たちの足音が続いた。
 混沌とした空気に包まれたそこで、ルネの、射手への牽制の声がひときわ高く響き渡った。
「あの方は、帝国の姫君です!」
 やはり……と、ぼくは息を吐いた。
 不思議なことは何もない。
 彼女は十五の小娘にしては堂々としすぎていた。たとえ帝都の黄金宮殿といえ、あんな物腰のむすめがそうざらにいるとは思えなかった。
 高価な羊皮紙を八つにたたみ無造作に持ち歩き、この緊急事態にもぼくたちの国のことばでものを話すなど、そうできることではない。
 実をいうと、ぼくは彼女の持ち物を見た瞬間、これは大変なことになったと気が遠くなりかけた。
 それは最高級とはいわずとも、子羊の皮を丹念に伸ばした上級品だった。この国であれば神殿に奉納されるべき代物で、若いむすめが浪費していいものではなかった。
 それにもましてぼくの血を凍らせしめたのは、その内容だ。
 正しくそれは、皇帝陛下に献上されてしかるべき「覚書」であった。
 そこには土地の人間の気質、川幅や船の荷の多寡、都市の物価、神殿の様相にわたるまで、帝都からこの国の町々が詳細綿密に記されていた。
 それは超一流の傭兵隊長、または密偵、いや、こうもいえようか……偉大な「施政者」の手並みだった。