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歓びの野は死の色すのことを語る


「失礼して、部屋を検めさせていただきました」
「読めたの?」
「すらすらというわけにはいきませんが、判読は可能です」
 アレクサンドラ姫はいからしていた肩をおとした。
「……この国でエリス以外にソレを読める人間がいるとは思わなかったな」
「そこのヴジョー伯爵とぼく、そしてエリス以外、おそらく誰も読めないでしょう」
 姫君は赤い髪をかきあげて苦笑した。なるほど、伯爵は二人の教師で帝都学士院の最優等生だったね、とつぶやいた。
 それから挑むようにこちらを見て、
「それでも、あたしはその依頼を『受けた』とは書いていない」
「それは詭弁です」
「まあ、そうだろうね」
 アレクサンドラ姫が不敵に笑った。そうして彼女は腕をくみ、睫を伏せて何事か考えるような顔をした。
 ぼくは一瞬、その端正なたたずまいに目を奪われた。
 髪はひとつに結んだだけ、革甲冑に短い裳裾と男物のキュロットをはいた奇妙な姿でありながら、彼女は至極美しかった。
「オルフェ殿下」
 ルネの声が、ぼくを引き戻した。
「アレクサンドラ姫への嫌疑はいったん取りおかれてはいかがでしょう」
「それは、あなたも共謀者だからではないのですか? それとも、あなたはあなたで別の計画がおありですか?」
 ぼくのことばに、ルネがわずかに瞳を大きくした。たぶん、意味がわからなかったのだろうなとぼくは判じた。
「ヴジョー伯爵、あなたはモーリア国の王女ではなく、本当はエリスと結婚したかったのではありませんか?」
「それは」
「エリスを攫って何処かに監禁し、ぼくを殺してから結婚すれば、あなたは堂々とこの国の主になれるではありませんか」
 ルネ・ド・ヴジョー伯爵は、今度はべつの意味で驚いているようだった。それからすぐに我に返ったのか、反論した。
「おそれながら、私があの方の自由を奪って殿下を弑逆するなど」
「エリスがこの国を離れて以来ずっと、ぼくはその惧れを抱いてきましたよ」
 彼は到底しんじられないという顔でぼくを見おろした。
 ぼくは、嘘をついていた。
 他人からそういうことばを囁かれたことは幾度もあるが、ルネに限ってはそんなことはないと高をくくっていた。
 もちろん、彼もそうした願いを持っただろうと考えることはあった。それでも、そんなことをすればエリスは彼を決して許さないという想像に思い至ると、ぼくはいつでも安心して眠ることができた。
 なにしろぼくは、今となっては、エリスのたったひとりの兄なのだ。
 エリスはぼくを大事にしてくれていた。帝都留学をかわってくれるほど、ぼくの身に何かあることを恐れた。
 それは、頼りにならない両親にかわってお互いを支えあうと無言のうちに交わした約束で、ぼくはルネがあらわれるまで、子供らしい無邪気さでエリスを誰にもやらないと決めていた。
 ルネは、未だ呆然として、立ち尽くしていた。
 彼がぼくを見捨てたことを――それはぼくの過ちに起因していたかもしれないけれど――彼がいま、そのことを思い出しているだろうと考えて、ぼくは可笑しくなった。
 エリスにあれほど忠誠を誓いながら、ルネが親のいいなりに他の女と結婚したことを、ぼくは恨んでいた。
 本来ならエリスが怒るべきことであったのに、エリスは何故か、安堵したような手紙をよこした。
 ぼくは独りで怒り狂い、伯爵の妻を誘惑したつもりだった。
 ほんとうのところ、ただあのひとを好きになっただけだと気がつくのが怖かった。
 そして今、ぼくは自分の破滅を恐れている。
 どうにかしてこの不手際を湮滅しようと、大きな賭けに出た。
 その犠牲の供物に、この実直な男の失意を捧げるつもりだ。
 《至高神》とやらは、太陽神の神官にして《死の女神》の真実の娘たるエリスの恋人を、掛け替えのないものとして受け取ってくれるに違いない。
 ぼくは兼ねてからの取り決めどおり、扉の外に声をかけた。一斉に雪崩れこんできた十名の黒衣の騎士たちにルネは素早く反応し、アレクサンドラ姫を背に庇おうとした。
「伯爵を地下牢へ連れて行きなさい」