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歓びの野は死の色すのことを語る


 市門を閉じても間に合わないだろうと、ルネがいった。
 ぼくもそれには同意した。
 すでに日は高く、この時間に門を閉めては都市民に要らぬ動揺をもたらすことは間違いない。
 犯行があったのは早朝、古神殿の裏手の厩だった。ぼくのたったひとりの妹は、そこから姿を消した。
 何故そんなところでとぼくが憤ると、神殿のものたちは小さくなって言い訳した。
 エリスは自分で馬の世話をするといって、独りでそこに残ったそうだ。それはいつものことで、彼女はまるで馬丁のように、蹄鉄についた泥を落とし汗拭いまでしてやっていたという。
 馬とともに過ごす騎士ならいざ知らず、蹴られでもしたらどうするつもりかと、ぼくは危うく声をあげそうになったのをこらえた。
 今は、そうした話ではない。
 ゾイゼ宰相にはまだこの詳細を伝えていない。
 政治向きのことから距離をおいて隠棲生活をしているぼくの両親はともかく、宰相には日が暮れる前には報告しなければならないだろう。
 しかも宰相はいま、同じく早朝とびこんできた別件の重大事にあたっている。
 ぼくはそれを思うだけで動悸がした。いっそこのまま何も知らず息絶えてしまえばどれほど楽だろう。
「街の中にいる可能性は全くないの?」
 赤毛の姫君の問いにルネが振り返り、断言した。
「ないと私は判断します」
 古神殿の執務室には、ぼくたち三人しかいない。
 呆れるほど空っぽの室内は、ゾイゼ宰相が全ての権限を完成まぢかの大神殿へ移行し終えた証だった。いつもながら、鈍重なからだのわりに仕事が速い。煩雑な儀式をそうとう省略したに違いないと、ぼくは内心舌をまいた。
 けっきょくのところ、エリスは葬祭長として、立派過ぎるほど役目を果たしたのだろう。
 先代の葬祭長、何事につけても因襲をもちだし旧弊を守ることに汲々とする公爵夫人、つまりはぼくたちの母親とはまるで違ったということだ。
 ルネはこの部屋の主の不在を思ってか、ぐるりと周囲を見渡してから吐息をついた。
 ぼくはその、秀でた額や形のいい鼻梁、頬骨の高い横顔を盗み見て、こんなときだというのにも関わらず、こういう顔に生まれたかったと内心うらやましく思っていた。
 つまるところ、どうやらぼくは緊張しているようだった。
 逆上せあがっていないことを確認するために自分の鼓動に耳をすまし、わけのわからないものにエリスの無事を祈った。
 祈りを捧げたのは、《死の女神》ではなかった。
 そうしてぼくが俯いたのを、ルネが気遣うようなそぶりで見つめた。
 ぼくは仕方なく、彼が先ほど問いたかったことを口にした。
「アレクサンドラ姫、貴女の配下の女戦士たちはその時なにをしていたのですか?」
「まさか、あたしたちを疑うつもりっ?」
 返ってきたのは、耳を塞ぎたくなるような声だった。
 先日あったときとまるで違う言葉遣いや態度に、この姫君が精神的に疲弊しているのだとぼくは感じた。それなのにぼくは、その裏返った声がさらに大きくなるようなことをいって追い討ちをかけた。
「このまま使者や便りがないとなれば、身代金目当て、または信仰や政治的理由による凶行ではないと考えるのが妥当でしょう。つまり、エリス自身がどうしても必要な人間の犯行です」
「それが」
「アレクサンドラ姫、貴女のほんとうの契約者は皇帝陛下ではなく、帝都一の銀行家、いえ、正式には先日その役を退いた元皇族ですよね? こちらで調べはついています。と申しますよりも、皇帝陛下御自らがお認めくださいました」
 姫君は平静をたもつふりをして、それができない自分に憤って頭をふった。
「貴女はエリスの守護者であったけれど、同時に監視者でもあった。ちがいますか?」
 ぼくよりも十ほど若いむすめは朱唇をかんで、ことばを堪えた。
 正直、ぼくはここで彼女に諾と認めてもらいたかった。そうすれば、非道な真似はしないですむ。
 ところが。
「たしかに、あたしはあの男に金を貰ってエリスに近づく男を片端から排除した。それは認める。それがあたしの仕事だったからね。
 でも、あたしは、エリスの誘拐を引き受けたつもりはない」
 ぼくは仕方なく、証拠品を提示した。
 折りたたまれた大量の羊皮紙の束に、彼女はただでさえ零れそうに大きな目を見開いた。