かけら
5
「さあ、なんでしょうね」
伯爵がまたもや首をかたむけて、頬にかかった髪を耳にかけなおした。
「さあって……」
「なにをお望みなのかお伺いしても、こたえてくださらなかったのですよ。よほど私が信用ならないのでしょうね。不甲斐ないです」
ほんともう、一晩一緒にいて一体ぜんたい何やってるんだか。
あたしはずっと、「そういうこと」というのはお互いの了解とか了承とか信頼とかの究極の形なのだと思ってきた。もちろん、そうした初心さがエリスに「姫君」扱いされる最たる理由だとわかってる。
でも、これはあまりにも酷いんじゃないかな。
あたしの困惑を感じ取り、伯爵はたいそう情けない顔でこちらを見た。
呆れきった気分で葡萄酒ではなく、ピケットを煽った。それにしても、こんな葡萄の絞りかすが美味いんだから、大したものだ。
「伯爵、おとなしく六日もここにいるつもり?」
「あの方の命令とあらば、致し方ありません」
「さっき、城といったね」
「ええ。《黄金なす丘》の城代に、それから母に、私が国を出る旨を伝えないとなりません」
「オルフェ殿下には、いうことはないの?」
事後承諾のつもりでいた伯爵に、あたしは異をとなえてみた。すると彼はあからさまに息をつめた。
「あなたが臣従礼を誓うべき相手は次の公爵である彼だよね? 周囲が盛り立ててやらないと、君主なんてものは立ち行かないと思うよ。なによりもあなた達が組まないかぎり、この国はまとまらない。
エリスをむざむざ帝都にやった遺恨は水に流して、いいかげん、あの綺麗な公子様を許してやったらどうかな?」
「なにか噂でもお聞きになられましたか?」
伯爵はもうなんでもない顔をしていたので、あたしは事実だけを話した。
「あなたは馬上槍試合で勝利してエリスから花冠を受けとって、街中の人間から二人の仲を祝福されたんだってね。二人がはなればなれになったのはオルフェ殿下が留学を断ったからで、伯爵はそのことを恨んで公爵家から距離をおいたって専らの噂だよ」
「そうですか」
「もっとも、伯爵はもともと二人の語学教師として城にあがったわけで、エリスがこの街をはなれてあとは仕事がないからお城にいかないってことも、きちんと理解されてるね。ただ、まあ、あなたが出来過ぎるから、比較されるオルフェ殿下はたまらないよね」
私はべつに、と言いかけた相手のことばを制す。
「それ以上は、あたしが聞く言葉じゃない。それは、あの公子の前でいうことで、ここでいう話じゃないよ」
「そう……ですね」
伯爵が苦笑でうなずいた。その顔には、あたしにはよくわけのわからない安堵のようなものが見え隠れした。
物語の中の騎士のように立派に見える男にも、どうにも子供っぽい意気地なしのところがある。腹が立つような気にもなるけど、ほんとのところ、それはそれで、そんなに悪くない。
だって、みんながみんな、皇帝陛下のように煮ても焼いても食えないような人物だったら、あたしが困る。そんなのだけは、まじめに勘弁してほしい。
思えばあたしもエリスも陛下に振り回されたようなものだ。
ううん、違うか。
エリスはきっと、あたしみたいに振り回されていない。
それに、陛下ははじめから、まっとうなことしか言わなかったのかもしれない。
太陽神の生まれ変わりらしく、その末裔として、理と知と法で明らかにされることを躊躇いなく口にした。
あたしがそれをちゃんと聞かなかったのかもな……。
そんなあたしだから、希望の小さなかけらに縋るように、エリスに自分の願望をおしつけたんだろう。
それは欠片ではあったけれど、あたしには、この大陸に欠けていた重要な何かにも思われた。
あたしは、エリスを皇后に仕立てあげたかった。
女の身に生まれて、これ以上の高みはないだろうという場所へ、エリスを押し上げてやりたかった。そうすることで、何もかもが完璧になるように感じていた。
でも、考えてみれば、そんなのはきっと、あたしの夢想でしかない。
そのくらいのことは、あたしにだってわかるようになった。
エリスはそういうあたしについ先日まで、否といわなかった。
あたしがエリスに縋りついていたから、そうじゃないとあたしが生きていけないと彼女も知っていたから……。
ううん。
エリスは賢いから、あたしを「卑怯」だといえば、自分にそれが跳ね返ってくると知っていたにちがいない。そうじゃなくて、優しいから、だろうか。あたしの弱さをわかっていて、許してくれたのだろうか?
あたしはただひたすら自分の重荷から逃げたかっただけだ。
そして、同じように伯爵から「逃げ」ようとするエリスを非難した。
他人にそんなことをいっておいて、自分だけ「逃げ」るわけにはいかないじゃないか。
あたしはそう考えてから、そっと自分の剣の柄に手を触れて、この鞘をはらうことのないようにと祈った。
あたしは、誰かを殺すことで大人になるのではなく、
誰かを生かすために大人になり、
そういう人生を歩めと、この地へ遣わされたのだろう。
――その日、たしかにあたしはそう日記に書いた。ところが、それから一日としないうちに、その決意は踏み躙られた。
エリスが、何者かに攫われたのだ――