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歓びの野は死の色すのことを語る

かけら

 伯爵があたしの顔をじっと見据えた。
 その視線をうけ、軽々しく口にしたつもりはないけれど、厄介なことになったと慎重になる。
 この男、エリスと一緒のときと微妙に態度がちがうじゃないか。どうしてくれようと考えた鼻先に、声がとどく。
「私は家督をいったん母に預けてモーリア王国の太陽神殿に巡礼し、王女殿下をお迎えにいきながら、《至高神》の教義とやらを学んでこようかと思います。われらの太陽神殿にも改革の兆しくらいあってもよいでしょう」
「エリスを追わないの?」
「私を遠ざけたいと思っておいでの方につきまとって、ご不快の念を新たにされては困ります」
「まあそうだけど」
「それに、目算もなく追いかけてもどうにもなりません。うまくしてご一行を見つけ足止めすることは可能でしょうが、私の願望とあの方のそれが一致しない状況では同じことのくりかえしです」
 あたしは深く頷いた。
 あたりまえといえばあたりまえだけど、エリスよりずっとまともな判断力がある。
 というより、こんなことを仕出かすエリスがそもそもおかしいんだよね。
 ふだん誰よりも冷静なくせに、ごくたまにあり得ないほどトチ狂うから、あたしは心配でたまらない。世話が焼けるというか、なんというか。
「随行の神殿騎士は誰を選ばれたのでしょうか」
「伯爵、あたしから情報を引き出すなら、ううん、その前にあたし達の願望ってやつが一致してないから無駄だよ」
「同じとは申しませんが重なるところもありましょう。貴女の望みはエリス姫の安全で、私のそれはあの方の幸福です」
 あたしはかなりむっとした。
 やっぱり、さっき意識のないうちに蹴り飛ばしておけばよかったよ。
「幸福なんて、命あってのものじゃない?」
「それは否定しません。されど、あの方のご意思を無視するやりように賛同するつもりもありませんよ」
「あたしはっ」
「帝都でエリス姫を必要とされておいでの方は、皇帝陛下でらっしゃいますか?」
「だとしたら、どうする?」
「ということは違うのですね」
 確認されて、吐息をついた。
 席をたてば、肯定することになるだろう。
「アレクサンドラ姫、貴女は私にエリス姫と結婚しろといいながら、その実はじめから、あの方を帝都に連れて帰るおつもりでいらした」
「ああ、そうだね。今でも実は、そう思ってるよ」
 悪びれずにこたえると、伯爵の眉がひょいとあがった。怒りというより、面白がっているようだ。あたしにそんなことができるはずもないと思われているようで癪に障ったけど、まあそうだ。
 ふんじばってエリス一人担いでいくことはわけもない。馬に乗せてしまえばこっちのものだ。ふつうに旅しても約六十日、帝都まで運ぶくらいは楽チンだ。
 でも、その後がおっかない。
「例えばそれが陛下のご命令であれば、あの方は逆らいませんでしょう。公爵位などという高い位を下賜するほどに、陛下はあの方を大事にされた。
 とすればあの方を帝都に留めおきたい人物とは、公爵位と同等の地位かそれ以下の方であるはずです」
 次の質問を予期してあたしは黙っていた。
「エリス姫の愛人とは、いったいどなたなのですか?」
「伯爵、エリスが話さなかったことをあたしが言えるはずないじゃないか」
「では、貴女とその方はどのようなご関係もないのですね?」
 あたしは沈黙を守った。
 守り通したといったほうがいいだろう。
 剣を突きつけられて脅されるほうがましだったかもしれないと、頭のすみでちらと思う。この真摯な視線から逃れるのは難しい。これだから、真面目な人間ってやつは苦手だ。宮廷とちがって調子が狂う。
「伯爵、あたしから情報を引き出すつもりなら何をさしだすか」
「《黄金なす丘》の二番樽を」
 彼はあたしの顔色が変わったのを見て、そこでことばをとめた。
「伯爵、ちょっと待った。こういうときは、一番樽なんじゃないの?」
「申し訳ありませんが、それは、差しあげる方が決まっております」
「エリスに?」
 それなら仕方がない。そう納得しようとしたとき、伯爵は重々しげに首をふった。
「それは、オルフェ殿下にさしあげようと決めました」
「あ……」
 その名前をきいた瞬間、あの震えがくるほど綺麗な公子の顔が脳裏にうかぶ。
「殿下には、私の忠誠の証に毎年お届けしたいと思っております。ですから二番で我慢していただかなくてはなりませんが、そのかわり、あの地がヴジョー伯爵領である限り、貴女のご子孫に至るまで永久にお届けすると約束いたしましょう」
 あたしは一呼吸おいて、考えた。
 この取引は、ヴジョー伯爵にとってのみ有利なことかもしれない。
 当たり年には黄金と同じ分量で取引されるという噂もある葡萄酒ではあるけれど、出来不出来は大きいだろう。
 それに、いつモーリア王が攻めてくるかと噂される昨今の事情を思えば、あの丘がヴジョー伯爵領でなくなる可能性も高い。
 それより何より、きっと、この男はあたしの正体にもうすうす気づいている。とすれば、これはヴジョー伯爵領を永世にわたり安堵せよという脅迫でもある。
 そう思ったけれど、あたしは自分の欲望に負けた。