かけら
2
そのとき、伯爵がゆっくりと寝返りをうった。
あたしは日記をたたんで立ち上がり、今なら刺せるかもしれないと考えて首をふった。
この男のいうとおり、無抵抗の人間に刃をむけるのはあたしの性じゃない。悔しいけど、あたしには無理だ。それに、どうしてあたしが彼を邪魔だと思っているかを伝えてからでも遅くない。
伯爵の隣には、古めかしい剣が置いてある。
実用一点張りの、重い長剣。
時代遅れといえばそうだけど、威力という点ではこれ以上のものはない。
あたしは実戦用の軽い剣を腰に佩いていた。
いつもの「脅し」では心許ない。
エリスはあたしに、剣など持てばかえって危険だと説いたけれど、あたしは最低限の守りがなければ落ち着かない。
エリスのように「姫君」らしく、誰かに守られて生きてきたわけじゃないんだから。
あたしはあたしの戦い方で、やらせてもらう。
さてと。
恋人に逃げられた哀れな男に、なんて目覚めのことばをかけたらいいのか考えなくちゃ。このあたしからエリスをとっていったんだもの、嫌味のひとつも言わなきゃ気がすまない。
そうしてあたしが息遣いを変えたとたん、ルネ・ド・ヴジョー伯爵の手のひらが剣に触れ、それが自身の剣であるとわかった瞬間に彼は身構えた。
そのようすは敵襲に備えて寝台の頭に背をつけて寝るのに慣れた貴族の男の習性として、なかなかに見事なものだった。
あたしは素直に感動した。
さっき剣をもって近づいたら、あたしが斬られたかもしれない。
なので、賛辞をこめて声をかけた。
「おはよう、ヴジョー伯爵。エリスにやり逃げされた気分はどう?」
伯爵は予想どおり、酷い顰め面でこちらを見た。
あたしは唇の端をつりあげてそれを眺めながら杯を掲げ、ゆったりとしたそぶりで葡萄酒を飲んだ。この暗がりでも、こちらの表情は十分にうかがえるだろう。
彼はあたしの態度と腰の剣を目にして、自分のおかれている状況を把握したらしい。
「あの方は何処へ」
伯爵にしては性急な問いだった。けれど、詰問口調と呼ぶほどの憤りや取り乱したようすもなく、礼を失しない程度の弁えはあった。
あたしの負け。エリスのほうが正しいみたい。
「知らない。知ってたら、あなたに脅されて喋るかもしれない。エリスの逃亡には手を貸さないとならないけど、あたしも自分の命は惜しい。知らないとなれば口を割る心配がないからね」
あたしは用心しながら近づいて、飲みさしの杯をさしだした。彼はそれをためらいもせず受け取って一息に干しあげた。
こちらを信用してくれたのはありがたい。
もっと飲むかときくと、首をふった。
あたしは杯を受け取り、少卓において続けた。
「服は、その衝立の裏に揃えてある。あたしは外に出るから着替えるといい。隣の部屋に食事の用意もした。ただし、わかっているとは思うけど、逃げようとは思わないでほしい。外にはあたしの部下がいる」
すでに了解済みという顔をして、伯爵が問い返してきた。
「私はいつまでここにいないとならないのですか?」
「とりあえず、六日って話だけど」
彼が、何事かを考えているのは明らかだ。この情報だけで得るところは山とあるはずだけど、それまで教えるなとはいわれていない。
あたしは思ったよりずっと冷静な男の顔を見た。すると、しないと決めていたはずの問いかけが口をついてでた。
「エリスに怒ってないの?」
寝台で裸の上半身をおこした男はちらとこちらを見て、頭をかかえた。
「伯爵?」
「怒っているのは自分自身に対してです。私は、あの方にまるで頼りにされていない……」
その悲痛な声に、彼がいま、とても惨めな気分だということは理解できた。
だから黙って踵をかえして隣の部屋にうつった。しばらく独りにしておいてやりたいと、らしくもない惻隠の情をおぼえた。
あたしはいつでもエリスの味方をするつもりでいたけど、この仕打ちは納得できない。同じことをあたしがされたら、一生恨む。
追いかけて首根っこつかまえて、地面に突き倒して謝らせないと気がすまない。
それからしばらくして伯爵は入室の許可をとり、髪をととのえきちんと髭をあたり、剣を佩いて入ってきた。その腰の吊るし帯は、エリスが用意したものだ。
あたしは給仕をするつもりもないし、すでに食事はすませていた。
相対して座ると、彼はかんたんな祈りのことばのあと、こちらを見て問うた。
「太陽神殿には」
「もちろん、話は通してある。心配ない。あの年をとったほうの見習いに、少しは息抜きも必要だって逆にいわれたよ」
彼はそれには苦笑した。それから、かたいパンを黙々と口に入れはじめた。
先ほどのように悲壮な顔つきはしていない。やはり立ち直りが早い。
「貴女はこの後いかがされるのですか?」
なに食わぬ顔で問われ、あたしは笑った。
「エリスの指示待ちだよ」
「その指示は」
「どこへくるのかはわからない。ここなのか、神殿なのか。あたしについてれば、少なくともエリスの状況はつかめるだろうね」
「わかりました。それでは、城へ手紙を出すわけには参りませんか?」
「それは無理。外部との接触を断つための幽閉だ」
「交渉にも応じていただけませんか?」
「買収されるほど落ちぶれてはいないつもりだけど」
あたしはそこで言葉をとめた。伯爵が何を持ち出すつもりなのか興味があった。
「アレクサンドラ姫、たしか、お味方してくださるとおっしゃいましたよね?」