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歓びの野は死の色すのことを語る

かけら

 ったく、エリスも酷なことをしてくれるよ。
 しかもそれをこのあたしに頼むんだから、始末が悪い。
 燭台をかざしたその炎のむこうに寝ているのは、小柄なあたしの倍もあるような長身の男だ。
 やっぱり、伯爵が寝ているあいだにその手なり足なりを縛っておこうかな。ああ、でも、それをするにはもう時間がたちすぎていて危険か。
 隣から運んできた燭台を小卓におき、日記をつづった羊皮紙をひろげ、あたしは先日の会話を思い返す。
「伯爵に剣を返すの?」
 あたしの問いに、エリスはうなずいた。
 この『ヴジョー伯爵拉致監禁計画』を話したとき、エリスと意見が分かれたのはそこだった。
「でも、そうしたら……」
「サンドラ、案ずるな。ルネは女子供に剣を向けるような男ではない」
「あたしはそこらの女子供じゃなくて、剣をもった女戦士だよ?」
「どちらでも、ルネにとっては同じさ。自分より弱いものに武器をむけるのは卑怯だろう」
 エリスはあたしが伯爵に剣を突きつけられて、エリスの行き先を言え、もしくはそこへ連れて行けと脅されたらどうするのか、そういうことを全く不安に思わないらしい。
「人間いざとなればどんなことでもすると思うけどな」
「やんごとない身分の姫君たるそなたに脅しのひとつもかけるようなら、おれはあの男をこころのそこから軽蔑するよ」
 あたしは諦めた。エリスに何をいっても無駄だ。
 恋は盲目だそうだから、しかたない。
 悪いけど、あたしは嫁入り前の処女だ。
 戦場で華々しく散るならまだしも、またはエリスの楯になるならいいけど、こんな痴話げんかの巻き添えでみすみす自分を傷つるつもりはない。
 もちろん、あたしの部下たちも危険に晒したくない。
 エリスはヴジョー伯爵を、物語のなかの騎士のように心清く勇敢な男だと信じている。それもあながち間違いってわけじゃないところがまた不満だけど、しょせん、男なんてものはどちらが強いかだけで生きている獣にちかい生き物だ。
 あたしの見るかぎり、伯爵はけっして自ら相手を見下すことはない。その一方で、容赦なく相手に反撃する術は心得ている。先に仕掛けないのは、自分が優位にあると知っているからだ。
 あたしは自分の配下を、ヴジョー伯爵領へもしのばせていた。
 報告によれば、どの町も村も資財帳をみるまでもなく不動産はよく管理されていた。
 驚くことに、黒死病が襲ったのちも、ひとびとが離散して機能を失った町はひとつとしてなかったようだ。被害が少なかったということもあるけど、ふだんから飢えていなかったのだろう。
 当然のこと、本拠地の城の貝殻囲壁は堅牢で、外廓の市街地も活気にあふれ、攻め落とすのは容易ではないと思わせるような街だったそうだ。
 モーリア王はうまくしたかもしれない。
 まだ黒死病の惨禍にあえぐこの街より、小麦が実り葡萄の生る丘のつづく豊かな農村部を手中にしたほうが余程いい。
 そして、伯爵もそれをよく知っている。
「エリス、これだけは言っとくよ。ヴジョー伯爵を監禁するってことは、あなたが自分で上手に伯爵を説得できないから、かわりにその尻拭いをあたしたちにさせるってことだからね。ねえエリス、男一人まともに説得できなくて、この先の国々でやっていけるの?」
 エリスはあたしの非難にこたえたようすもなく頤をそらして返答した。
「サンドラ、おれがかつてあの黄金宮殿で失敗したことがあったか?」
「なかったね。なかったけど、それは運がよかったからじゃないの? エリスがこんな卑怯な真似をするなんて、想像したこともなかったよ」
「たしかに卑怯だが、致し方あるまい。おれは弱いのだ」
 エリスがそういって笑った。
 微笑まれて、きゅうに胸が痛くなった。こんな風に笑うなら、いっそ泣かれたほうがましだ。
「サンドラ、おれは強くない。弱ければ卑怯で許されるわけではないが、おれはこうでもしないと生きていけぬ。いつまでもいつまでも初恋のひとを思い切れず、何処へもいかれぬのだ」
 エリスはそのあと、ひどく言い辛そうなようすでこう続けた。
「今になってすまないが、そなたの希望は叶えてやれぬ」
「どうして?」
 あたしは、わかっていて尋ねた。
「……ルネを、愛しているからだ」
 エリスのことだ、誇らしく高らかにそれをいうかと思っていたら、彼女は弱々しい声でつぶやいた。あたしはその顔を見つめるだけで胸がつまり、それ以上は言葉にできなかった。
 それでも、エリスにはエリスの選択があるように、あたしにはあたしに課せられたそれがある。
 あたしは自分の将来を決めないとならない。
 すなわち、誰かを殺して国に帰り、結婚して子供を生む権利を得るか、
 それとも……。