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歓びの野は死の色すのことを語る

うずまき

――そなたの真実の母である《死の女神エリーゼ》のようになるがよい――

 おれが帝国を発つときに、皇帝陛下はそういった。それからおれの顔をしげしげと見て、これほど美しく育つなら、やはり手をつければよかったやもしれぬなと続けた。
 横で聞いていたアレクサンドラ姫がいまいましげに眉を顰め、その視線に陛下が声をたてて笑った。
 おれは陛下に、《死の女神》のようにとはどういう意味かと問うた。
 陛下は、そうさな、と首をかしげ、再びおれの顔をみてほくそえんだ。

 エリス姫、己はそなたが恐ろしい。そなたが本気で欲しいと願えば、己などすぐにそなたの手に落ちる。どうにか朝は日を昇らすことができても夕方には力尽き、女神のいる西の地へ抱き取られて眠る日の神のようにな。そなたがせっかくのその力を行使せず、うらぶれているのもつまらぬのだよ。

 おれはそのことばを信じなかった。
 けれど、もしも自分にそのような力があるのだとすれば、やはり一度くらい使ってみたいとも考えて、実行した。
 その結果、おれの隣にルネが眠っている。

 正確にいえばおれが一服盛ったのだが、ほんとうによく寝ている。気の毒になるくらいの熟睡ぶりだ。その証拠に、鼻をつまんでも耳を引っ張っても少しも起きる気配はない。それなのに、調子にのって髪に手をさしいれて接吻したら、口許をわずかに緩ませた。
 それを見たとたん、何かわけのわからないものが胸に押し寄せるのを感じた。
 おれはあわてて半身をおこし、どぎまぎする胸をおさえた。すると、腕のなかにあったものを探すように彼の手が空をきり、おれがその手をつかむと安心したのか深く息をはいた。
 思ったより、効き目が弱い。
 ならば、予定より早く行動しないといけない。
 そう思うのに、おれはぐずぐずとルネのそばを離れられない。
 こらえきれず、おれはその手を握ったままもう一度その隣に寝そべった。それから規則正しく上下する裸の胸へと片手でそっと毛布を引きあげ、呼吸のひとつひとつをたしかめるように、彼の寝顔を眺めた。
 先ほど、ルネはおれが神殿の大理石像ではないことに感じ入っていた。
 幼いころの彼は、神殿におさめられていた女神像に恋焦がれていたらしい。
 おれは笑った。
 では、あの冷たく硬い像と共寝すればいい。
 そういうと、ルネは顔を赤らめた。そして、おれの頬を両手ではさんでくちづけて、いやです、あなたがいい、貴女様でなければだめですとくりかえした。
 ルネは先のことを話し合いたそうな顔をしていろいろ尋ねてくるので、おれはそのたびに彼の唇を自分のそれで覆い、またはのしかかって有耶無耶にしてきたのだが、もう誤魔化されないという顔で迫られた。
 おれは仕方なく服をきて葡萄酒の壜をはこび、それを飲んでから話し合おうと持ちかけて、成功した。
 葡萄酒にまぜてルネに飲ませたのは青いひなげしの乳汁だ。
 ふつうのひなげしの催眠作用と桁違いの威力を発揮するそれは、量を間違うと、二度と目覚めを迎えることができなくなる。
 青いひなげしをひとびとの手に触れさせないのは、そうした理由によるものだ。
 しかも、これを知っているのは大教母と一部の女神官だけだった。
 大教母は、それが使い方によって毒にも薬にもなるということを、おれに教えてくれた。それはまた、この世のわりのなさ、はかりきれなさ、人間の無知と限界をも明らかにし、善悪を判断することの困難をこころに刻むことばだった。
 しかしながら、ひとはそうした分かりやすさに寄りかかりたくなる脆さをも抱えていて、それゆえに悲しい存在だと、大教母は微笑んだ。
 当時まだ幼かったおれには、ことばの意味を正確に理解できていたはずもないのに、おれはそれをたしかにおぼえていた。
 それと同時に、昔、ルネの語ったこともこの胸に響いた。
 ルネは、いずれ死ぬことも厭ではないと、笑った。
 この苦しみばかりの地上で、女神の腕に抱き取られること以上の幸福はないに違いないと、まるで死を司る神官か何かのように厳かに口にした。
 おれはその顔を見あげながら、こうしてその声を耳にすることができなくなることの意味だけを考えていた。別れるということ、遠く距離を隔てられるということは、なんと「死」と似ているのだろうと思っていた。
 ルネは、《歓びの野》に眠りたいと願っていた。
 彼が永久の眠りにつくのは、あの青い花の咲き乱れる野原だと信じていた。
 それは女神の抱擁に身を委ねるということで、ルネが女神に抱かれたいと欲しているとおれは感じた。
 おれがこの国に戻ってきたのは、ルネがいたからだ。
 ルネが《死の女神》を欲するのであれば、おれは真実、女神になりたいと願った。
 けれど、おれは女神ではない。
 死を司り、闇をまとい、眠りの主であるあの麗しい女神ではなく、ただの人間だ。
 おれはきっと、そのことをルネにいいたかったのだ。
 そうして、冷たい骸となったルネを抱きしめるのでなく、この温かな熱をもった身体をこの身で抱きとめたかったのだ。
 その切なる願いはこうして叶い、おれはここを発たなければならない。
 この暗闇から、出でねばならない。
 何故ならおれは闇にとどまりそこに住まう女神ではなく、人間の女だから。
 おれは預かっていた剣をおれの寝ていたルネの隣においた。
 そうしてもう一度それをとりあげて、ろうそくの灯りにかざした。
 宝石もなく黄金も使われていない、なんの飾りもないただ実用のみのこの剣が、いかにもこの男の持つものらしく、おれは自然に口がほころぶのを感じた。
 それから、おれは鞘をすこし引き上げてあらわれた刀身に祈りをこめてくちづけた。
 冷たい鋼は唇に痛いほどで、おれはその感触を消すように腰をかがめてルネに最後の接吻をした。