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歓びの野は死の色すのことを語る


 エリゼ公国には山がない。
 遮るもののない空の下、緩やかな起伏を描く丘がどこまでも続き、その間を蛇行する河が流れている。この河の恵みこそが、この国の栄華の基礎となった。
 街から河岸をいくらか下ると、崖に横穴を掘って住むひとびとがいる。
 そこは光のあたらぬ住居ではあるが、慣れてしまえば気温が安定して住み心地がいい。もちろん、葡萄酒の貯蔵庫としても最高だ。
 菫の家とは、そうした葡萄酒の貯蔵庫兼横穴住居のひとつだった。
 帝都に旅立たれるエリス姫に、菫の香りのする葡萄酒を貯蔵していた場所ごと私がさしあげたものだ。ここに納められるべき樽は、毎年きちんと帝都にあげられるよう手配した。
《黄金なす丘》で収穫される葡萄酒の木苺の香りより、姫さまは普段はこちらを好まれたのだ。
 今日の姫さまは、喪の色ながら裳裾をひいていた。よくよく見れば葬祭長としての簡易式服であったが、襟と袖には雪よりも白いレースがふんだんに使われているためにたいそう艶やかに見えた。
「少し変えてみたが、どう思う?」
 問いかけに、私はただただうなずいた。
 早かったなとかかった声に続いて、挨拶もなく突如としてはじめられた会話ではあるが、この唐突さこそがエリス姫らしく、私はなんともいえず笑いたくなっていた。
 そうした私の気持ちのあれこれを姫さまは勘違いしたようで、ややむくれたような顔でこちらを仰ぐ。
「おれは、良いだの悪いだのという感想を訊いておるのだがな」
「よく、お似合いです」
「そんなことは十二分にわかっているさ」
 姫さまは悪戯の成功した子供の顔つきで首肯して、自分の手柄を見せびらかすような仕種で肩に散った髪をかるく払う。
「それで、組合員たちの反応はいかがなのですか?」
 私の問いに、姫さまは少し固い声で返す。
「帝都のように奢侈禁止令が出されるほど売れるとは思わないが、まったく金にならない商売ではないと判じている。それより何より、神殿の女たちにはいい稼ぎになる」
「この国は、八年前の災厄から立ち上がったばかりですからね」
「ああ。現実的には輸出用だ。帝都の流行に憧れる後進国たる小国貴族たちの手に、二流品として渡るだろう」
 二流品という言葉をつむいださいに、エリス姫は皮肉っぽい微笑をみせた。私がそれに気がつくと。
「だが、販路はこちらで確保した。帝都は遠い。あちらから運べばそこに道中の危険まで加味された値がついてまわる。こちらは神殿騎士をつけて売る」
「では、陸路をいくのですか?」
「ああ。これ以上、水運業者にうまい汁を吸わせるのも癪だからな。そのかわり、亜麻は従来どおり、水路をつかう」
「そうですね。彼らの反撥を買うようなまねはしないほうがいいでしょう」
 私が納得顔でうなずくのを見て、エリス姫がなにかを思い出したらしい。
「そういえば、雪のように白いレースを黒衣の神殿騎士に運ばせるのだと説明したら、サンドラ姫が、それなら美男ばかり集めなきゃというので笑ったよ」
 私はどう返していいのかわからず、曖昧に微笑んだ。
 それでも、商人たちが騎士に守られて旅をするのは妙案だと認めた。昨今の世情不安のため、道中傭兵を雇う交易商も多くいる。そうして高額を払って雇い入れた傭兵が、いつ夜盗になりかわるかもわからないこの時代、神殿騎士ならば信用がおけるだろう。
「そなた、ここへは滅多にこないようだな」
「ええ。管理だけで、あとは任せてしまいましたので……」
 地下水のしみとおる天井は葡萄酒のためには湿気があっていいものの、たびたび水滴が落ちてくるのでは住むには困る。それも、きちんと補修のあとが見えた。
 点々とならぶ燭台には芯のかたいままの蜜蝋燭が揃えてあった。胡桃材の卓上にはかんたんな食事の用意があるが、これは、この方の差配したもののようだった。
 それでも、私は高貴な女性をこのような場所に立たせておくことに躊躇していた。さりとて、用意のいいこの方がわざわざこんなところで待っていたとなると、軽々しく場所をうつすとも言いがたい。
 奥には、椅子と長卓が並んだだけのそっけないこの場所よりはいくらかましな部屋もあるのだが、この入り口でいうべきことはいっておかないとならなかった。
「先ほど私はオルフェ殿下ならびに宰相閣下に、モーリア王国の王女殿下との婚儀の話をすすめてくださるよう、告げて参りました」
「それは、ひとまずめでたいな」
 めでたいと言われ、私は怯んだ。
 悲しい顔をみせてほしいと思ったわけではなかったものの、手放しで喜ばれて落胆した。自分がこれほど情けない男であったかと、忌まわしくなるほどだ。
「ルネ、乾杯するぞ」
 籐かごから杯を出され、給仕のいないことに今さらに気づいた私はあわてて姫さまの手からそれを奪った。
「そのままで。姫さまにそのようなこと、させられません」
「おれはここしばらく何でも独りでしてきたがな」
 苦笑したものの、エリス姫はおとなしく席についた。織布さえかかっていない卓にはパンと蜂蜜、それから腸詰と数種類の乾酪があった。
 つましいといえばつましいが、この住居には似つかわしい。
 先ほどうかがった様子では、外に女戦士が三人ほど控えていた。馬に乗ってきたらしく、すぐ河岸のすぐそこまで足跡があった。それなのに繋いだ姿がないことをいぶかると、彼女たちのひとりが轡をとって、厩につないで休ませると申し出た。
 そのとき、すぐに帰るということばを私はのみこんだ。
 彼女たちは一晩この扉の外ですごす体制でいた。それなのに火も焚かず、馬も隠そうというのだから余程、用心しているのだ。あの蹄のあとも消し去るくらいのことはする覚悟だと、その瞳が語っていた。
 そうしたことを思い出しながら、一方で、何故か私は緊張から逃れていた。
 ここに呼び出されたのは、姫さまが何らかの事情で神殿を離れたかったために違いないと思い始めた。または、姫さまの「神殿改革」の概要について、話してくださるものと考えていた。
 乾杯は互いの健康を祈るという味気ないものに落ち着いたが、ひとくち含んだのちの姫さまは恍惚として長い睫を伏せた。
「葡萄酒だけは、この国のものに限る」
 本心からのことばと聞こえた。私は、この方がようやくこの国に戻ってきたのだと強く感じて、しみじみとうれしく思った。
 考えてみれば、それ以上のことはない。
 死の女神の娘たるこの方がこの国にあるというそれだけで、私にはこれ以上なく幸福なことだったのだと気がついた。
 エリゼの街の西と東、互いに古くからある神殿に住み、ときにこうしてそのお姿を拝見できればそれで十分にも思えた。
 たとえてみれば、この方は歓びの野に咲く青い雛罌粟のように摘み取ってはならない高貴な花で、私がそれに触れることが許されるのは永久の眠りにつくときだけであると……
「ルネ、まずは噂話からしようか」
 杯をおいたエリス姫が私の顔をみた。
「そなたの結婚相手は夫を毒殺したことは間違いない」
「それは、遺骸の検分をなさったということですね?」
 《死の女神》の神殿は、死に関わるありとあらゆる知識があるとされている。そのなかには、死亡要因をつきとめるという業もある。
「ああ、そうだ。モーリア国の神殿の祭司がいうには、王女殿下の夫であった公爵は毒殺されたそうだ。遺骸を隠しもしなかったという話だから、そうとう胆の据わった女らしい。翻って、さきのモーリア王の死は毒物の使用や暗殺の気配は見当たらない」
「では、毒殺という噂は」
「若きモーリア王の喧伝であろうな。つまり、妹姫のしてきたことを恐れて頭を働かせたというわけさ」
「してきたということは、他にも前科があるのですか?」
「あるようだが、さすがに宮廷内は守りが堅い。未確認だ」
 至高神とやらの祭司たちが葬儀を執り行っているのだろう。
「ルネ、決断が早急すぎたのではないか?」
「そうともいえないでしょう。いずれにせよ、モーリア王に野心のある今、和平条件としての婚姻は悪い話ではありません」
「だから早急だと申しておる。婚姻など、怯えた兄の厄介払いに過ぎぬように思うがな。それに」
 姫さまはそこでことばをとめた。
「どうされました?」
「いや、ありえぬ話ではないということを思いついただけだ。いいついでだ。おれはモーリア王国にいくことにする」
「本気ですか?」
 私が声をあげたので、エリス姫は破顔した。
「ああ。ゾイゼの奴がモーリア王に嫁げと煩くてかなわんので、神殿を逃げ出してきたのだ。皇帝のお古はいらんという話だと教えてやったのに、ひきさがらん。まったく、あの石頭には困りものだ。
 まして物々交換のように女をやり取りすれば平和がくるなぞと思うのは男の考えでしかないと言い返してやったら、こめかみに青筋たてて怒っていたよ。癇癪をおこして声をあげるのは女の特権だと思っておったが、違うらしい」
 姫さまが笑っていた。
 私は、なにもいえなかった。いや、問うべきことがあった。
「あの国へ」
「布教活動なぞに勤しむのも悪くなかろう」
「あの戦乱の地に?」
「遺骸がゴロゴロ転がっているらしいから、仕事は山ほどありそうだ」
「危険です」
「それは承知のうえさ」
 エリス姫が喉をそらして杯を干しあげた。目を射抜くほど白いそこがあらわになり、私はあわてて顔を伏せた。
「ルネ、どこに生きていても死は平等にやってくるものだ」
「ですが貴女様は女性で」
「おれが盗賊や傭兵どもに犯されて挙句の果てに殺されては哀れと思うか?」
 声を失った私に、姫さまは晴れやかに笑った。
「ルネ、案ずるな。よほどのもの知らずでもない限り、おれを捕らえたらまずは身代金だ。そうでなくとも、《死の女神の娘》に何かすれば末代まで祟るとみな信じておろう」
「モーリア王国の惨状は、そうしたこちら側の常識を覆すほどのもののようですが」
「おれだとて、何も知らずに飛び込む気は毛頭ない」
「貴女様を侮っているわけではないのです」
 私の言い訳を、エリス姫は冷然と視線をむけた。
「ルネ、おれはたまたま運よく公爵家の姫君という身分に生まれ、他人から貶められずに生きてきた。それと同時におれがこの国でレースをつくってよその国へ捌くことができるのも、おれが帝国金貨というこの大陸でいちばん強い財貨を持っている故のことだ。またはおれはまがりなりにも公爵位をもっているため、宰相ゾイゼにも否といえるし、わが兄オルフェにも否という」
 そこで姫さまは蝋燭の炎に顔をむけ、目を細めた。
「おれには身分があって権力と財力という力がある。それを使ってできることをするのがおれの使命だと思うがな」
 それは、否定できるものではない。
 しかし。
「貴女様は、その御力を手に入れるために、手放されたものもあるはずです」
 不躾なことを問うて傷つけようとしたわけではなかった。姫さまはそれをご存知のようすで苦笑した。そのまま諦観に満ちた表情で、ことばをつむぐ。
「力を手に入れるためという積極的な行為ではなかったな。あのころのおれは、そこまで考えられるほど強くも賢くもなかった。まずは己の地歩を固めるために、誰かの庇護を受けたいと願って、おれはあの男に身を売ったのだ」
 私は瞼をとじた。
 夜のしじまに、河のせせらぎの音が聞こえていた。
 気がつくと、姫さまがすぐそばに立っていた。
 しずかな、平らかな声が聞こえた。
「おれの手放したものが何であったか、そなた、本当にはわかるまい」
 私が顔をあげると、姫さまの指が私の頬に触れた。
「姫さま?」
「動くな」
 命じられた私は、椅子に腰かけたまま石のように固まって、ただ焦点の定まらない瞳だけをわけのわからぬ怯えに泳がせていた。
「この、くるくると巻いた癖のある髪に、一度でいいから触れてみたかったのだ」
 私の髪は姫さまの細く長い指に巻きつけられて、解かれてはうれしげに跳ねてまとわりついていた。私はそれが乱れて頬にかかるたびに、くすぐったさに頭をふりたくてたまらなかったのだが、姫さまに逆らうのを躊躇ってこらえていた。
 そして、姫さまが手放されたものがなんであったかに考えを巡らそうとして、そのたびに姫さまの冷たい指が頬やこめかみをかすめて、すべての思考を奪い去っていくのを感じていた。
「近いうちに、おれはこの国を離れる。事後は兄とゾイゼに託してきた。
 ゾイゼとは共にあの古神殿で大教母の教えを学んだ仲だ。彼は至高神からの改宗教徒なのだ。大教母に拾われたのだから、恩は忘れまい。そなた、兄とゾイゼが仲違いせぬよう、見守ってくれ」
 ことばの意味をおうことが、難しくなっていた。
 姫さまの唇がこめかみのうえに落ちたのだ。
「姫さま……」
 うろたえた私が身体をひくと、その細い手が私の頤をとらえた。
「亡くなられた奥方を裏切りたくないというなら、おれも無理に迫るのはやめる」
「そ……」
 なんと返せばいいのかわからなかった。
 ほんとうに、わからなかった。
 私は情けないことに、神に助けを求めたいほど音をあげていた。そうしてその神が、自分の奉じる太陽の神でなく、この方の御母である《死の女神》であることに気づいて愕然とした。
「だがな、おれも一生に一度くらい好きな男と寝てみたい。そう願っても罰はあたるまい。そうではないか?」
 首を縦にも横にもふれないでいる私に、彼女は微笑んだ。
 その顔は、《死の女神》そのもののように麗しく艶やかで、そしてこの地上の何もかもを覆い尽くす夜闇のように貪欲であった。