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歓びの野は死の色すのことを語る


「御用とあればこちらから馳せ参じましたものを」
 如才ないあいさつとはいえないが、私は一応、筋を通した。
「こっちの用だから、それはかまわない。それより伯爵、無腰で歩いて不安じゃない? じゃなきゃよっぽど腕に自信でもあるとか?」
 彼女の視線が腰におち、私は苦笑でそれを受け流した。
「そうではありません。この街で私を襲うものがあるとすれば、流れ者だけですよ。
 身構えれば身構えるほど、相手も緊張するものです。幸いなことに、この街に住む者であればみな私の顔を知っています。私は金銭も持ち歩いていませんし、指輪も何もしていない。私から奪えるものがあるとすれば、この命だけです」
 無論、小刀だけは男子の嗜みとして差していたが、それは貴族の男がもつものとはいえない日用品だ。
 私は街中で何かを欲しいと思い立てば、神殿のツケで払う。飲み物は葡萄酒を携帯しているし、潔斎のため予定にない外食はしない。物乞いや病人へ喜捨するのに不便だと思うことはあるが、その場合はこの神殿へ案内する。歩けないほど弱っているのであれば、担いで帰る。それだけのことだ。
「その命、あたしが欲しいといったらどうする?」
 姫君の両目を見据えて私はこたえた。
「取っておいきなさい。貴女に、取れるのであれば」
「大きく出たね」
「貴女は武器も持たない無抵抗の人間を殺せるようなひとではない」
 それを聞いたアレクサンドラ姫が艶やかに微笑んだ。
「あたしはね、エリスのためなら自分の手を汚すことくらい幾らでもできるよ」
 ひどく誇らしげな声で彼女は続けた。
「あたしはあなたとは違う。エリスのためなら何でもできる。あたしは、エリスがいたからあの宮廷で生きられた。だから、今度はあたしがエリスのために命を張る番だと思ってる」
「アレクサンドラ姫?」
「あたしはエリスのことを何でも知ってる。見ないようにしてきたあなたとは違う」
 そういって、若いむすめは高らかに笑った。
「伯爵は自分から何も選ぼうとしない。他人から与えられたものでしか、自分をはかれない臆病者だ。それに、ここにあなたがいるかぎり、エリスはこの街を離れない。だからあたしはあなたが邪魔でしかたない」
 支離滅裂な論理というわけではなかった。
 このむすめにとっては、エリス姫を帝都へ連れて帰るのが本当の目的なのだと知れた。
「貴女はなにか思い違いをされておいでです。私がいようがいまいが、あの方にはなんの関係もない」
「そうやって、どうしてエリスのことを無視するんだよっ」
 姫君の咆哮に、私は目を見開いた。
「エリスがかわいそうじゃないかっ。エリスは何もかも捨ててこの街に帰ってきたのに、この世でいちばんの贅沢も賞賛も、何もかもを捨ててきたのに、なんでここでも他人に利用されて、不幸じゃなきゃいけないんだよっ」
「それは……」
 私にも、わからなかった。
 彼女の目に涙があふれ、はらはらと零れ落ちた。
「ここでも、といいましたね」
 私の声に、アレクサンドラ姫が身体の力をぬいた。
「ああ。言ったよ」
 彼女は私の顔を見あげた。
「アレクサンドラ姫、あの方のことを教えてくださいますか?」
「それは断る。あたしはあんたが嫌いだ」
 彼女は涙を手の甲でぬぐい、鼻をすすった。
「だから剣を構えて尋常に勝負しろと言いたいところだけど、あいにく、伯爵の剣はエリスが持ってるんだよね」
 このむすめに取り上げられた剣は、では、あの方が預かっているということだ。
「菫の家で待つと、エリスが言ってた」
 そのことばを耳にした瞬間、何をおいても駆けつけねばならぬという想いの強さにしたたかに殴られた。それは私の胸倉をつかみ、引きずっていくような狂気じみた暴力だった。
 私はその妄想を払いのけようとかぶりをふり、今夜、神殿の炎を絶やさぬよう務めるのは私の番で、つまり外出は許されないのだと、頭のなかでくりかえす。
「ああ、伯爵は行けないんだ。いや、行かないんだね?」
 アレクサンドラ姫はそういうこちらの意をくんだ。
「そう……ですね」
「なんで?」
「今ほど宰相とオルフェ殿下に、モーリア国の王女との婚姻を受諾すると申し上げてきたところなのです」
 女戦士の姫君が首をかしげた。
「それで?」
「ですから……」
「ねえ伯爵、あなたの領地はこの国の約半分だって聞いたけど、ほんと?」
 いきなり話を変えられて、私は意識をたてなおした。
「それは誤解がありますね。この国においていちばん広い領土をもつのは神殿です。《死の女神》をまつる神殿のもつ領地がこの国の三分の一ほどを占め、残りを公爵家とわが家、いくつかの貴族が分けているといったほうが正しいでしょう」
「つまり、今までは公爵家がこの国でいちばん偉い祭司でいたから、この国の三分の二をぶんどっていたと」
 首肯すると、姫君は感慨深げにため息をついた。それからついと顔をあげて、
「じゃあさあ、神殿が伯爵に加担すれば、公爵家そのものだって潰せるってこと?」
「それはありえません」
「どうして?」
「公爵家こそが《死の女神》の血統だからです。
 皇帝が太陽神の末裔であるというように、いえ、それ以上の確信をもって、エリゼ公爵家の方々は《死の女神》の寵児なのですよ。
 そして、この国の基盤にあるのは《死の女神》への崇敬、いえ、畏怖の念です。公爵家に刃を向けて無事ですまされると思う人間は、少なくとも、この地にはいないように思います」
「それはでも、エリスさえ押さえとけばいいだけの話だよ。公爵家の面々が死のうが、エリスがいれば、問題ない。なんていっても、エリスは《死の女神の娘》なんだからさ」
 私は目の前のむすめの整った横顔に、質問をぶつけた。
「それが、皇帝陛下のご意向ですか?」
 彼女はちらりとこちらを見て、唇のはしにうっすらと微笑を浮かべた。
「陛下とは、その話はしてないよ。ただ、あたしがそう思っただけ」
 こちらがその顔をのぞきこんでも、表情を変えようとはしなかった。
 私には、その態度こそが、ふだんはぞんざいな物言いをするこのむすめが黄金宮殿に長く暮らしてきた証であるように思われた。宮廷生活で喜怒哀楽をはっきりと面にだすのは愚か者のすることだと、彼らはよく知っている。
 とりすました笑顔で口にする追従のきらびやかさ、賞賛の儚さ、艶やかな皮肉……そうしたものに彩られた生活は、ひとの顔のうえに紗を張ったような印象にかえる。
 それをひとが洗練と呼ぶのだと知ってはいるが、こんな若いむすめまでがそうした暮らしに慣れきっていることを思えば、エリス姫の十年間がしのばれる。
「でもさ、この国を奪ってエリスを手中にするってことくらい、考えたことあるよね?」
「一度も想像したことがないとこたえれば、さすがに嘘になるでしょうね」
「計画まではしなかったと?」
 遠慮会釈ない質問の連続に、私は苦笑するしかなかった。
「しましたよ。十年も昔のことですが」
「それなのに、実行に移さなかったと?」
「ええ、どう見ても分が悪いのです。私は、勝ち目のない戦はしない主義ですから」
「それにエリスも喜ばないと」
「そうですね」
「それに、この国を獲ったはいいが、帝国が黙っていないだろうしね」
「そうですね。帝国の大軍相手に何ができるとも思えませんし」
「攻めてくると想像した? こんな遠方の小国、ほっぽっておかれるとは思わなかった?」
「五十年、せめて三十年前なら取りこぼされることもあったかもしれませんね。ですがこの十年の状況を鑑みてそれはないと断言できます。
 これ以上帝国版図が狭まれば、大陸全土にいい影響を与えません。いまの皇帝陛下はそれを分かっておいででしょう。ただでさえモーリア王のような反帝国派の国王が気を吐いている時代です。帝国から離反する国がどうなるかと、見せしめとばかりに叩き潰されてはたまりませんよ」
 私のことばに、赤毛の姫君は同意するように頭を揺らした。しかしながら、かわいらしい頷きのあと、彼女は挑発する視線で頤をあげた。
「だけどさ、そうやって何もかも先を読んで行動して、それで人生つまらなくない?」
「楽しむために生きているわけではないのですよ」
 そのことばには、アレクサンドラ姫が眉根を寄せた。
「エリスと同じことをいうね。モーリア王国の鞭打ち行者みたいだっていったら、あれは気持ちがいいに決まってるって言い返されたよ」
「私も同感ですね。自己を苛むのはけっこう気持ちがいいのですよ」
 紅い髪をした姫君は、胡乱げに目を眇めてから吐息をついた。
「あんたたち、二人してけっこうな変態だよ」
「似合いだと言っていただいているわけではありませんよね?」
「あたしが然るべき地位についたら、メダルのひとつも作ってやりたい気分だけどね。裏表でね、絶対一緒に並べてやらない」
「それであれば、表裏で太陽神と死の女神を配したほうがよろしいのでは?」
「なるほどね。その案は、悪くない」
 アレクサンドラ姫は腰の袋から眩いばかりの金貨をとりだして手の内で弄りだした。そうして横に傾けると太陽をあらわした渦巻き模様の皇帝紋がくっきりと浮かび上がり、また表を返せば太陽神と見まがうばかりの皇帝陛下の横顔があらわれた。
 この、月桂冠を戴いた美男が三十年ほど前、まだ二十歳そこそこで帝位についたとき、人々は太陽神ご自身が地上に降臨したものと信じたそうだ。たしかにそれも無理からぬと思わせるだけの美貌であったそうだ。
 それが故に、エリス姫は帝都に招聘されたのであろう。
 姫さまは、皇后を亡くした皇帝陛下の妻に相応しい女性として、黄金宮殿にあがったはずだ。
「ねえ伯爵、馬鹿正直に正面衝突で合戦しなくとも、方法はいくらでもあるように思うけどな。そのくらいのことは思いつくはずだよね? なんならあたしが手を貸そうか?」
「意味がわかりかねますが」
「アマゾオヌの一族が、加担してやるっていってるつもりなんだけど」
 エメラルドの瞳が閃いて、このむすめが本気だとは気がついた。
 しかし。
「有難いおことばですが、よその国を頼りにすると碌なことにはならないと歴史が証明しているとおりです」
「それはいえてるね」
「それに、今の私は公爵家と事を構えたいとは思っていません」
「そうはいっても、あちらが攻めてくればどうする?」
「攻め入る理由がありませんよ」
「理由などいくらでもつくれる」
「オルフェ殿下はそんな徒なことはなさらないでしょう。ヴジョー家のものをとりあげたくば、私を殺せばいいだけです。従弟たちはまだ幼く頼りない。後見に立つといえば誰も断りをいれられません」
 ふ~ん、と姫君は鼻をならした。
「暗殺されるかもしれない危険があるとわかってて、無腰で歩いちゃうんだ」
「人間、死ぬときは死にますからね」
「それっていわゆる自棄とか逃避じゃなくて?」
 思わず考えこまされそうになった私に、女戦士の姫君はかるく声をたてて笑った。
「ねえ伯爵、神殿騎士ってやつは平民でもなれるんだよね?」
「それは事実ですが、神殿騎士団は実質的に公爵家の麾下にあって、この国の貴族の子弟ならばたいていは名前のみでも所属しています。今でこそ、騎士団長にアラン・ゾイゼ殿がおさまっていますが、伝統的に代々公爵家の男子がその役につくのです」
「どうせお飾りだよね? その役目をあの綺麗な公子サマにさせてやったって問題なかったんじゃないの?」
 それについては、当時もだいぶ物議をかもしたのだった。
「殿下のほうで、固辞されたのですよ」
「そりゃあそうだよね? あの身体じゃ騎士って柄じゃない。馬にだって長い時間は乗れなさそうだ。でもだからこそ、公爵家に刃をむけるつもりがないんだったら、ヴジョー伯爵たるあんたが後ろ盾になって彼を推すべきじゃなかったのかな?」
「ええ。それは私の過ちだったと認めています」
 断罪をすなおに受けると、姫君が張りのない男だなあと吐き出して肩を落とした。
「その調子で、いろんなこと後悔しまくってるでしょ?」
「私をそそのかすおつもりですか?」
 エメラルドの瞳がきらめいた。
「伯爵をそそのかすのは難しいな。あなたはこの国の重石だ。だから皇帝陛下はあなたをこの国に帰した。エリスじゃなくて、この国の要はあなただったんだ。
 あたしには、それがわかれば十分だ」
 謎めいたことばをつぶやいて、紅い髪のむすめは瞳を伏せた。それからおもむろに顔をあげ、西を見た。
「日が沈む」
 菫の家があるのはこの街の外だ。
 日が沈めばこの街から出るのに何らかの理由がいる。衛兵は、私の外出理由を咎めるだろう。
「ねえ伯爵、勝負しないか? あたしが勝てば、火の番はあたしがする。伯爵が勝てば、あたしは使いも果たせない馬鹿むすめとしてエリスに叱られに帰る」
「アレクサンドラ姫」
「剣で斬り合おうっていうんじゃない。この金貨の表と裏のどちらをとるか、それだけのこと」
 高々と金貨を掲げた姫君に、私はうなずくよりほかなかった。