音
1
これでいい……。
私はオルフェ殿下の前を辞去し、自分に言い聞かせるようにうなずいた。
決意というほどのこともなく、ただそれが己に課せられたものと確認する意味で。
八年前、私は自分の住まいをこの小さな太陽神殿に定めた。
大陸でもっとも多くの人たちに信奉されている太陽神も、この国では影が薄い。
なにしろわが神は、そのはじめは《死の女神》の息子にして恋人であったのに、彼女を裏切って闇を裂き天空を治める神となったのだ。
この国のひとびとは不実の罪は重いと感じているらしく、太陽神殿は建造された当時のそのまま姿で、街の東の外れにひっそりと立っていた。
そこにいる神官職は私のみ、見習いが二人、畑仕事や雑用をこなす作男が二人、それだけで事足りてしまうといえば、いかに小規模な神殿であるかわかるものだ。
モーリア国の王女は、間違ってもこんな窮屈な暮らしは好まないだろうと、私は笑った。
前の妻は、日々のほとんどをこの神殿ですごす私に不満をいわないひとだった。
不満どころか、会話は必要最低限のことだけで事足りた。それなのに式服の替えなど欠かすことなく調えてくれ、細かいところによく気のつくひとであった。
私は安堵した。この女性となら、うまくやっていけるに違いないと。
妻がこの街を離れたのは、黒死病の噂が流れはじてすぐのことだった。
私は彼女の安全を思い、それをすすめた。いや、夫のことばに逆らうようなひとではなかったので、彼女にとってそれは命令に等しかったであろう。
そのときの私は妻と離れがたいとは思わなかった。煩わしさから開放されると思ったわけではないものの、重荷を外される安らぎがあった。これで存分に神殿の仕事に打ち込めるとも感じた。
そうした気配を察したのか、私の小姓だった少年が気を利かせ、お寂しくなられますね、と口にした。私は頷いた。たしかにまだ結婚して三月とたっていない時分のことだった。
私は、妻がどんな表情でそのことばを耳にしたのかさえ、おぼえていない。
私が妻である人に安心しきって甘えていたというのが正しいのか、そのくらい、あの女性に関心がなかったのか……今にして思えば、そのどちらにせよ、そうした私の態度が、鋭敏な感受性をもった妻を傷つけていたことは想像に難くない。
あのとき、妻には《黄金なす丘》の城がいちばん大きく不便はないと教えたのだが、彼女は川のそばの館に拘泥した。街からさほど遠くなく、万が一の時には女の足でも三日ほどで市街に入れる場所だった。
それが、よくなかったのだと今はわかる。
妻の死の報せを運んできた乳母は、それでも私がこの街を離れないと知ると、泣きながら尋ねた。
オルフェ殿下はいったい何処の城にいるのかと。
黒死病の嵐が吹き止み、私は殿下と再会した。
殿下は目に見えて悄然としたようすで兄君の葬儀に列席し、虚ろで不安げな瞳で何処ともわからぬところを見つめていた。人々はそれを、今まで兄の影に隠れて安穏としていた弟が、いきなり次期公爵へと押しあげられたための憂いと嘆きと見た。
けれど、私は知っていた。
オルフェ殿下は最愛のひとを突然亡くしたが故の不幸に蝕まれているのだと。
葬儀のあと、殿下はおぼつかない足取りで私の前に立ち、切れ切れの声で、これからもあなたを頼りにしたいと願い出た。
私は、殿下の華奢な肩を見おろしてこたえた。
私の助けなどなくとも、貴方様なら立派な領主になられますよ。
その瞬間、あの方の顔は凍りついた。
殿下がどんな想いでそんなことを口にしたのか、それは私にはわからない。
そのときの私は、あの公子のただ一人の友人であるにも関わらず拒絶して、誰も助けがいないなかに置き去りにしたのだ。
暫くして後、殿下から申し入れがあった。
万が一ぼくに何かあったら、と殿下は微笑んだ。
後のことは任せます。男の愛人の家で倒れたなんてことになったら困るので、あなたと一緒にいたことにします。よろしいですね?
私は首肯した。
否といえなかった。
それはすでにして、命令であった。
殿下は、私の顔を見つめてゆっくりと語った。
ぼくにはみなのこころの声が聞こえるのですよ。兄の代わりにぼくが身罷ったほうがこの国は安泰であったのにと、みなが残念に思っているようですね。実はぼくもそう思います。うまくいかない世の中ですね。
オルフェ殿下はそういって、あのいつもの、捕らえどころのない微笑をうかべた。
私が自分のしたことの罪深さに慄いたのは、それからのことだった。
殿下はすっかりゾイゼ宰相の手に絡めとられた。
ところが、それはそれでこの国にとっては平和なことでもあったのだ。
川船を襲う夜盗は、モーリア王国の騎士たちが退治した。
今までは水運業者の自警団やこの国の貴族がその任にあたったことを、かの国が代わった。上納金は納めたが、死者が出ないのは有難かった。
もっとも、夜盗は今度、さらに南のレント共和国を襲っていた。
つまりはモーリア王国の自作自演だったと住民は知っている。
それでも、川の所有権を争って隣国と睨み合う緊張から逃れられた。
モーリア王の野望は、南へと進軍することだ。
そのときにこの国を無残に踏み躙らせないためには、モーリア王家と姻戚関係を結ぶ必要がある。
もちろんモーリア王とすれば、私の妻となる王女を通じて、広大な領地を持つヴジョー伯爵家を掌握したいという狙いもあるだろう。
子供が生まれれば、私の持つものは当然、その子のものになるのだ。
将来、オルフェ殿下の御子と私の子供が争うようなことになってはならない。
生まれもしない子供のことを思って将来を憂えるなど、馬鹿らしいとは思う。それでも、まだ若く血気盛んな王を隣国にもってしまったことを考えれば、そしてまたその子が国王と同じ血を引くのであれば、現実的な問題だ。
はたして、私は自分の務めを立派に果たせるのだろうか?
父の時代はよかった。
まだ、騎士道が生きていた。
暴力の露になる場所においても、規律があった。
休戦協定があり、人質交換の儀式があり、戦いにあっては名乗りがあった。
ところが今は違う。
先年、モーリア王はわれわれ太陽の神殿が禁じた大砲を戦場で使った。また、長弓を用いて敵を殲滅し、農地を踏み荒らし都市を略奪し、無辜の民を陵辱し殺戮しつくした。
わが神の使節団がその街を訪れたとき、街中で生きて動いているのは鼠と野犬だけだったという。下穿きすら奪われた無残な遺骸がいくつも幾つも転がっていたそうだ。
皇帝陛下の平和勅令を受けても、モーリア王は取り合わなかった。
彼らの奉ずる《至高神》こそが唯一のそれであると訴えて、複数の神をまつる帝国民を「救済」から遅れたものなどと罵った。
救済――それは《死の女神》の腕に抱きとられることではないという。
彼らは闇の世界への安息を求めていないそうだ。
罪と罰の世界のわかりやすさ、または因果応報への期待へと、北方の民人は傾きはじめていた。
なにもかもを受け入れる死の女神の温かみをしりぞけ、生前の行いを裁き厳罰と報奨をくだす《至高神》を望むこころは、世の不条理を許せぬ民人の声の反映ということかもしれない。
さりとて、そのように「正しき神」など本当にいるものだろうか。
私には、それが信じられない。
もしも本当にいるのであれば、その神こそが至高の神であるという彼らの言を信じたいという気持ちにもなる。
しかしながら、そんな人間に都合のいいものなどいないのだ。
それは、己を律することを知らぬ弱きこころのもたらした、至高ならぬ幻想の神に違いない。
裁きがないことほど、恐ろしいことはないだろう。つまりは、己の犯した過ちを自身で償い背負わねばならないことほど、辛く厳しいことはないのだった。
それにしても、後悔とはなんと虚しいことばだろう。そうやって振り返ってみても、あのひとはいない。私の愚かさや至らなさ、またはいたわりのなさに、あのひとは何も言わずに耐えて、孤独のうちに亡くなった。
私は、オルフェ殿下に感謝こそすれ、殿下を断罪するなどもっての外だ。
ところが、当時の私には、そうしたことどもが何一つ、わからなかった。
恋する方を諦めた自分が酷く傷ついていることさえ、知らなかったのだから。
そしてその痛みをさえ忘れたふりをして自分の内側に篭り、やさしく物分りのいい妻をないがしろにしたのだった。
私はエリス姫に哂われて、あのときはじめてそれを知った。
自分が弱いことを。
それなのに、強がっていたのだということを。
そしてまた、その強がりのためにひとりの賢明な女性を孤独の淵に追いやったことを……私は、こともあろうに自分がもっとも大事にしてお守りしたいと思っていた女性にそうしたことを知らされた。
あの方は、当時のことは何もご存知ではないだろうに……。
いや、あの方は私のことなどすべてお見通しに違いない。
私の醜い心、嫉妬心、不安、増長、そうした何もかもをご存知に違いない。
だからこそ、私はあの方に拒絶されたのだ。
そう考えて寒々しい気持ちで自嘲すると、若いむすめの声が聞こえた。
「伯爵、機嫌がいいようだね」
私は、執務室の扉の前に陣取るアレクサンドラ姫の姿を見た。