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歓びの野は死の色すのことを語る


 もうすぐ完成という大神殿はどこもかしこも新しい匂いがした。
 削られた木屑の香りを吸い込み、乾ききらない漆喰壁を眺めて歩くと、エリゼ公国の跡継ぎがわざわざ視察に来たのだと、あちらこちらで気合をかける声があがる。
 ぼくは彼らの邪魔をしたくないので石工の棟梁や工房の主たちに目配せし、そのまま作業を続けてくれと指図する。すぐにその場は活気を取り戻し、小気味いい空気が満ちわたる。ぼくはほっと息をつき、賞賛の声のかわりに振舞い酒を用意する。
 反対に、小うるさくつきまといたがる神官たちには邪険にふるまう。こういう手合いは、かえって冷たくあしらってやったほうが悦ぶおかしな質なのだ。彼らの希望通り、ぼくは冷淡で我儘な美貌の公子を演じる。
 ぼくはそれなりに捻くれてはいるが、雑駁で気さくな人間だと思う。
 つまりは、領主にはあまりむいていない。
 すこぶる権高で、意地が悪く、裏の裏をよみ、臣民から慕われるのではなく恐れられる男のほうが、彼らの生命と財産を守るには都合がいい。
 先ほどこの神殿の外観を見て、嫌になるほどそれを思った。
 幾つもの尖塔が天を衝くように聳え立つ威容は、まさしく女神の偉功をあらわにして端正ではあった。けれど、二百数十年もかけてこんなものを造り、それが出来上がるとともに国そのものが失われてしまってはしようがない。
 ぼくは、モーリア王に与しやすいと思われている。覇気のない、からだの弱い男ではそう判断されても仕方ない。
 小一時間ほど前に、アラン・ゾイゼとは別れた。
 この「別れた」は、決裂したという意味だ。
 アランはそもそも、宰相ゾイゼとぼくの連絡係だった。愛人関係を結んだのは、それが何かと便利だったからで、そこに好意はあっても愛情はなかった。
 あの瞬間、八年もの長きにわたって、ぼくがもっとも頼りにした男はあっさりと掌を返したのだ。
 とにもかくにもエリスをよその国にやるなんて真っ平だ。野卑で野蛮なモーリア王などに嫁がせるくらいなら、昔の愛人のもとに送り返す。そうすれば、少なくともエリスだけは助かるだろう。
 それを、彼女が喜ぶかどうかはわからないけれど。
 ふと、あの女戦士の姫君の表情を思い出す。
 あの娘は、モーリア王国と交戦することになれば、エリスだけは帝都へ連れて帰ると言い張った。
 そうさせないと、ぼくはそのとき口にした。
 エリスが帝都で真実、幸福であったとは思えない。
 それでもエリスは旅立つ前にこの土地で死ぬと、ぼくに誓った。それはつまり、必ず生きて帰ってくるということだ。
 女戦士はぼくの判断に異を唱え、彼女を守りきれるのかと断罪したが、同時に、エリスの意思を無視しようとする自分をも呪うようなことばを吐いた。
 あの赤い髪と同じく、火のような娘だった。
 炎は何もかもをあらわにする。
 あの隠し事の似合わない美しい娘を、エリスがどれほど愛しているか、ぼくにはわかる。
 エリスは炎を愛していた。
 何もかもを闇に包みこむ《死の女神》より、エリスは太陽神に憧れていた。ものの輪郭をとらえ、秘密を暴き、生命を生み出す、日の神の健やかさを愛した。
 その神が、死の女神を裏切った息子で、睦びあいこの世を生んだ恋人であると知っていて、太陽神の強さを恋うた。
 それが、「正しさ」という容赦のなさであることをも、好いていた。
 エリスの果断さは、《死の女神》のやさしい抱擁とは相容れなかった。
 そこに忘却と安寧を求めるひとびとの願いを、彼女はひそかに憎んでいた。
 もちろん、彼女はそうとはっきり口にしなかったけれど、ぼくにはそう思えた。
 エリスは、小さなころから少しばかり風変わりな娘だった。
 その姿が周囲から浮いていたのはもちろんのこと、不思議なものの考え方をした。そこに在るものが何故そこにあるのか問い質したがる、何事も鵜呑みにして信じることのできない性質だった。とりあえず自分の頭で一回考える、または試してみない限りは納得しないのだ。
 ところが、エリスはそうした一方で妙に容易くひとを信じた。
 ルネ・ド・ヴジョーが結婚したとき、ぼくはエリスに、花嫁のことを書き送った。
 男心をそそる艶やかな美人というわけではないが、清楚な佇まいと帝国貴族らしい気品にあふれた物静かな女性で、とても似合いの夫婦で幸福そうに見えた――そう書いたぼくのことばを、彼女はすなおに信じ込んだ。
 ちなみに、ぼくは嘘は吐かなかったと思う。
 ただ、本来ならそこに付け加えられるべき言葉の幾つかを故意に省略しただけだ。
 花嫁の形容に間違いはない。いや、だいぶ甘い点をつけた。
 清楚というのは、色気も何もない凡庸な容姿のことをさした。気品というのは、ただ人と打ち解けない頑なさのためだ。物静かなのは、たんに、面白みのないぼんやりした冴えない大女だというだけだ。
 ぼくの目にはそういう風に見えた。
 堅物と評判のあの男なら相応しかっただろう。
 だから、その点は「似合い」なのだし、またぼくのいうのは「幸福そう」であって、彼らがそのように振舞っていたという事実は、エリスに伝えなくともいいことだと決めつめた。
 そういえば、ルネの父親は、ぼくたちの母親である公爵夫人の求愛者だったと噂にきいた。病弱な父よりも、騎士らしく壮健な伯爵のほうが恋人として似合いだったのにと、つまりはぼくのような弱い子供でなく、賢明で強いルネ・ド・ヴジョーのような男の子が生まれただろうにという、オマケつきだ。
 ぼくたちの両親はいとこ同士で結婚した。
 どうやら周囲の反対を押し切っての恋愛だったそうだ。
 公爵家同士、身分は問題ではない。反対の理由は、これ以上血を濃くして弱い子供のできるのを避けたかったからだ。それほどに、この血は澱んでいた。
 ただ、不思議なことに、そうした血族婚がつづくうち、一族中が金髪に碧眼という容姿のなかで、あるとき突然、黒髪に黒い瞳の子供がうまれた。
 そういう子供は、人の死を予見する不思議な力を与えられることが多かった。
 死を予言する子供など不吉な存在でしかないが、これが貴族となれば事情は異なる。
 しかしながらエリスは、そういう恩寵は授からなかった。
 両親はそれを喜んでいた節がある。
 ぼくもそうだ。
 ぼくは何時なんどき自分が死ぬか考えることが、「生きる」ことと同じような子供だったから……
 ぼくは自分が母親に似ていることを嫌になるほど感じて育った。
 男に生まれて、何処となく憂いをおびた繊細で蟲惑的な美貌というのを母から譲り受け、それで愉快にこころ楽しく生きられるはずがない。
 ぼくは相応に鬱屈し、ぼくとは違った意味で、人からその特異な姿で値踏みされて捻くれた妹を可愛がった。
 そうしてルネ・ド・ヴジョーは、ぼくらとまた違ったところで、なんだか空恐ろしいような屈託を抱えていた。
 それはやはり彼の両親の結婚に由来していて、彼がこの国を離れて帝都へいき、この国では珍しい太陽神の神官などになってしまったのは、母親の意向のようだった。
 しかと確かめたわけではないが、ぼくたちの教育係であった、あの美しくも才ある帝国生まれの貴婦人は、エリスを帝都に送ることに熱心だった。
 もしかすると彼女は、ぼくたちの母親、この国の公爵夫人のことが憎かったのかもしれない。だから、その娘であるエリスと自分の息子を引き離した……
 いや、そうまで単純な話ではないか。
 こんな想像は、ぼくの独り勝手な想像にすぎない。
 ぼくは、人間のこころがひとつの色だけに染まるとは思っていない。
 もしもそうであれば、国を治めることも簡単だ。
 エリスがいっていた。
 色を重ねていくと結局は黒に染まるそうだ。しかも、美しい黒に染めるのは難しい。どことなく薄汚れた、ただ醜いだけの闇色になる。
 人間はだから、本来は闇のようなものかもしれない。
 ぼくは供も連れずに長廊下を歩いていた。
 歩いていたというより、その長廊下を端から端までいくども往復していた。
 壁面に目をむけると、至極立派な壁掛がそこにあると気づく。
 ぼくはそれを無視した。
 否、見ないようにしながら、そこに描かれている人物たち、幾度も聞かさされた円卓の騎士たちの活躍を思い出す。
 ああそうだ。
 古神殿から、これを持ち去るように命じたのはこのぼくだ。
 あの女が、誰のためにこれを作ったのか、ぼくは知りたかった。
 ぼくは、ルネ・ド・ヴジョーの妻と寝たことがある。
 あの、少しも魅力などないような女に迫って、無理やりに関係を結んだ。
 ぼくは物心ついて以降、いつでも相手に不便をしたことがなかった。
 地位があり、美貌があり、しかも生まれつき心臓が悪いという、どうしようもない不幸を背負っていた。
 ぼくが少し拗ねたり涙を浮かべたりすれば、男でも女でも、ほだされた。その胸にぼくを抱きとってくれた。
 ただ、あの女だけが違った。
 ぼくの涙を信じなかった。
 好きだという言葉も、信じなかった。
 愛しているといったのに、それさえも、耳にいれようとしなかった。
 ぼくは彼女を憎んだ。
 今でも、憎んでいる。
 頑丈だといったのに、病などしないと笑ったのに。ぼくの手首のほうが自分より細いとぼくを嘲ったくせに……
 ぼくをおいて、先に死んだ。
 ひとりで、誰にも看取られずに死んだそうだ。
 ぼくは、ルネ・ド・ヴジョーをも憎んでいる。
 あのひとを、孤独に死なせた夫を許せないでいた。
 それは自分も同罪だと知っていて、それでも、遠い異国へ嫁いだ彼女を大事にしなかった男を憎んだ。
 ぼくには、彼を殺すだけの理由はない。それでも、彼の幸福を邪魔する権利はあっていいと……そう、願っていた。
「オルフェ殿下?」
 耳慣れた声に、肩を震わして振り返る。
 そこに、ぼくに妻を寝取られた男が立っていた。