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歓びの野は死の色すのことを語る

散らばる

「ようこそ、死の都へ」
 そういって微笑むオルフェ殿下は、この世のものとは思われないほど美しかった……。
 あたしは今、この日記を故国のことばで綴っている。この国でこれを読むことができるひとがいるとすれば、女公爵エリスだけだ。
 だから、彼女にはあたしのしようとすること、またはしようとしてできなかったことがわかるかもしれない。
 もちろん、あたしはそのことをエリスに知られたくない。
 それなのにこんなことをここに書いているのは、あたしがエリスにだけは嫌われたくないからだ。エリスにだけは、あたしのことを理解してほしいから……。
 エリゼ公国は人口十万にも満たない小さな国だ。
 首都でさえ、五万とひとがいない。八年前の黒死病蔓延で、都市民の四分の一が死んだという。
 そのときの被害でもっとも悲劇的だったのは、エリゼ公国の世継ぎの公子が亡くなったことだろう。頼りの長男を失った公爵は床に伏すことが多くなり、これ幸いと宰相ゾイゼの専横がはじまった。
 それ以降の重圧は、からだの弱いオルフェ殿下にとって耐えがたいことだったに違いない。
 少なくとも、あたしはそう聞かされてきた。
 ところが……。
 ああ、それはいい。今は、おいておこう。
 誰にだって、裏はある。
 今現在、この小さな国が大陸中の視線を集めているのだ。その渦中の人物が間抜けでは、芝居は面白くないだろう。
 昨日あたしが案内されたのは、エリゼ公家の城だった。
 厚みのある城壁と丸い塔がいかにも古めかしいのに、どことなく優美な風があるのは、写本や壁掛けに出てくる古城そのものの姿をしていたせいだ。
 これで金髪に青い目のお姫様や王子様がいれば、それはもう完璧におとぎ話の世界だ。そう思って笑いそうになったところで、目の前にあらわれたのが、息を飲むほどの美貌のオルフェ殿下だった。
 思えば、あたしはそのときから気おされていたのかもしれない。
 ところが、この上なく優美な貴公子は、その姿を裏切って直截だった。
 あいさつもそこそこに本題にはいられて、あたしは度肝を抜いた。
「アレクサンドラ姫、あなたの腕を買うにはいったい幾ら必要なのですか?」
「わたくしの雇い主は皇帝陛下ですから、陛下にかけあってください」
「それは、エリスの身辺警護のことですよね?」
「ええ」
「ぼくの依頼は、誰にもわからないように人間ひとりをこの世から消し去ることについてなのですが」
 あたしは笑って請けあわなかった。
「殿下、わたくしは女戦士で、暗殺者ではありませんよ」
「皇帝陛下は貴女にちょくせつ掛け合っていいとお話しくださいましたが……」
 あたしはしくじった。
 オルフェ殿下の澄んだ瞳をまじまじと覗きこんでしまっていた。
「貴女はまだ、人を手にかけたことはないようですね」
 いかにも残念だという調子で吐息のように掠れた声に、あたしは気持ちを奮い起こした。
「殿下は何か勘違いをなさっておいでのようですね。わたくしども女戦士は、皇后陛下をはじめ皇女殿下や皇帝陛下の寵姫などの身辺警護を生業にしているのです」
「自信がないのでしたら結構です。こちらはこちらで、別の手を考えます。妹に頼んでわざわざ来ていただいたのに残念です」
 今にも、お帰りくださいと言い出しそうな雰囲気だった。
 穏やそうに見えながら実は癇のきつい顔立ちに、焦りの色が濃くうかんでいた。
 あたしは少し、興がひかれた。つつみかくさずいうと、その翳りに惑乱された。
「誰かを殺したがっていると知れてしまったこと、気になさらないのですか?」
 不躾な問いに、公子は期待どおり、妖艶に微笑んだ。
「そのくらいは気にしません。貴族であれば、普通のことでしょう」
「暗殺はふつうでも、それを知られてしまうのは困るのではないのですか?」
「殺したい相手にさえ伝わらなければ、なんの問題もないですよ」
 彼は肘をついて真っ白な両手を組み合わせ、そのうえに男にしては尖ったあごをのせてこちらを流し見た。
「それとも、話を請けてくださるのですか?」
「それが、エリス姫のためになるのであれば」
 あたしはずっと、そう思ってきた。もしも自分がその仕事をするのだとしたら、それは、エリスのためがいい。
 あたしたち女戦士はもう、昔のように戦に出ることはない。あたしたちの先祖が皇帝に膝をついて後は、戦の勲しはすべて、男たちだけのものになっていた。
 かわって、あたしたちの引き受けたのは暗殺だ。
 男たちは、女という生き物を侮って生きている。
 あたしたちはそれを逆手にとる。
 アマゾオヌの王女が誰にも知られずひとを殺すとき、それは生涯に一度だけのことだ。
 無事に事を果たせば故郷に帰り、結婚して、子供をもうけることを許された。
 それが、きまり。
「エリスのためになるかどうか、ぼくにはそれはわかりません」
 あたしが心を決めて依頼主を見つめたのに、公子は頼りないありさまだった。
 じっとその両目を見据えると、彼は弱々しく笑って告げた。
「なにしろ殺して欲しいのは、ヴジョー伯爵その人なのですよ」
 あたしはとっさに瞼を伏せた。
 驚きはなかった。
 実はあたしも、そう思っていたから。