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歓びの野は死の色すのことを語る

散らばる

 あたしは椅子から腰をあげ、水を汲んでさしだした。
 エリスはお礼をいって杯を受け取り、肩をすくめて苦笑した。
「おれが寝台を占拠してしまったな」
 すっかり板についた男言葉。
「もう少し眠りなよ」
「いや。自室に戻る」
 こうなったら、こちらのいうことを聞かないのは承知していた。それでも、あたしには言うべきことがあった。
「ねえエリス、あたしと一緒に帝都に帰ろう」
 エリスは無言でこちらを見おろした。あたしはその鉄面皮に挫けずいった。
「皇帝陛下に頭をさげればすむことよ? 意地をはらなくてもいいじゃない」
「意地の問題ではないよ」
「でも」
「サンドラ、おれに指図するなら帝都へ戻れ」
「エリス!」
「あいにくだが、おれにはここにいてもそのくらいの権力がある」
 嫌なことを口にする。
 そして、エリスは自分がどんどん嫌な人間になっているという自覚がきっとある。
「帰国してからのエリスはおかしいよ。どうしてあんなに綺麗だった髪を切ってしまったの?」
「めんどうくさい。おれには今、前のように侍女がいない」
「髪くらい、あたしだって結ってあげられるよ」
「その暇があればそなたに薪を割って火を熾し、羹のひとつも作ってもらったほうが助かるのだ」
 エリスは真顔だった。
「サンドラ、おれは女をやるのに厭いただけだ。これも飽きたら女のかっこうに戻るやもしれぬ」
「嘘つかないでよ、エリスはもう男に振り回されたくないだけじゃないっ」
 エリスは少し、瞳を大きくした。
「そんなふうに見えるか?」
「見えるよ」
「ならば、そなたのいうほうが正しかろうな」
 エリスは納得顔でうなずいて目を細めた。
「サンドラは賢いな」
「また偉そうに!」
「実際えらいのだから仕方あるまい。この大陸で、公爵位をもつ人間が何人いると思う?」
「あたしのいうのはそういう話じゃなくて」
「ちかごろおれは周囲の者みなにそういわれるな」
 エリスが楽しげに笑って再びあたしを見た。
「サンドラのいうとおり、おれはもう男に振り回されるのはやめた」
「なにいってるの、今だって振り回されてるから、そんな変なかっこをしてるんじゃない」
 エリスは細い眉をひそめてみせた。
「戦装束の乙女にいわれたくないが」
「あたしはアマゾオヌで、誰もがそれを理解して認めてるよ」
「物珍しかろうと認識のうち、というやつだな。逸脱すれども理解は得られる。だがな、その了解が得られるようになるには、どれほどの時間が必要とされたか、または犠牲を払ってきたか、それくらいは考えたことがあろう?」
 あたしが口をつぐむと、エリスが高らかに告げた。
「おれはたしかにこの姿と地位であるものを失い、また得たりしたが、おれ自身はほんとのところ何も変わらないのさ。おれは裸で生まれてきたのだから、死ぬときの装束くらい己の宰領で選びたいではないか」
「エリス」
「だからな」
「エリス、話をずらさないで。あたしはべつに、エリスのしようとしていることに反対はしてない。でも、そんな流行遅れの男物を着て、おかしな言葉遣いをすることに意味はあるの?」
 エリスが腕をくんだ。
「意味の有る無しでいうなら、おれにとっては間違いなく意味はある」
「どんな?」
「ひとつは手間隙がかからぬこと。ふたつは、物事にはそれに相応しい形があるとみなが頑なに信じていると学べること。みっつは、おれの頭のなかの変容にある。おれは、ことばによってしか考えられぬからな」
「エリスのいうことは正しいよ。でもあたしは、黄金宮殿一の美女だった綺麗なエリスが見たいのっ」
 あたしの言葉に、エリスが切れ長のひとみを瞬かせたあと愉しげに喉をならす。
「随分と嬉しがらせをいうではないか」
「お世辞じゃないよ」
「サンドラ、おれの目からすれば、そなたのほうがずっと美人だがな」
「あたしはアマゾオヌだもの。裳裾をひくようなしゃらしゃらした服は一生きない」
「間違うな。そなたはそのままで美しいといっているのだよ」
 エリスはあたしの顔をうっとりと眺めた。それは、紛れもなく賛美の視線だった。
 ひとりでに頬が熱くなるのは、しかたがない。
 エリスのこの眼に見つめられて、平然としていられる人がいたら会ってみたい。
「サンドラは、ああいう服が好きか?」
「エリスが着てるのが好きだったの!」
 なるほど、とエリスがあごをひいた。たしかに自分で着ていると鏡でもつかわぬ限り見えぬからな、と彼女はつぶやいた。
 それからこちらに向き直る。
「そなたの頼みなら聞いてやりたいところだが、おれは自分の持ち物すべてを売り払ってきたのだ」
 そうだった。
 衣類宝石はもちろん、家具や食器にいたるまで、エリスはこの数ヶ月で処分した。もちろん、処分といっても投げ売ったわけじゃない。ある者には高額で購わせ、また他の者には何らかの特権を委譲させ、恩着せがましく譲り渡した。
 あたしは正直、ひとの足許を見るようなそのやり方があまり好きじゃなかった。なんだかエリスらしからぬ態度だった。そういったら、本人は気を悪くしたようすもなくあたしを見て、紅い唇をほころばせた。
 姫君らしく、かわいいこと――
 そう決めつけられて、あたしは黙りこんだ。
 エリスは、あたしの知らない世界で生きていた。
 その当時はもちろん、この今も。
 あたしには、そこがエリスのほんとうに望んだところとは思えなかった。
「サンドラ、すまないが明日、おれの兄に会いにいってはくれまいか」
「それはもちろん」
 かまわないという意志をこめてうなずくと、エリスは少し考えるような顔をした。
「うわさによると、オルフェの愛人は男らしい」
「問いただしてくればいいの?」
「いや、兄は口を割るまい。べつに愛人のひとりやふたりは問題ない。ただ、相手の素性が気になるだけだ」
「だから調べろっていわれれば」
「そなたには無理だ」
 かなり、むかついた。
 だったら話すなよ。そう思っていることがばれているので口を結ぶ。
 するとエリスが優しげな目をしてこちらを見おろした。
「ただ、オルフェの様子をうかがってくるだけでいいのだ。無茶はするな」
 エリスの命令なら、あたしは聞くしかない。
 それが、契約というものだ。