たしかに、エリス姫と結婚できないことは以前にも覚悟した。
二十歳のとき、この方は皇帝陛下の寵姫になるために帝都にいくのだと諦めていた。だから、彼女を困らせてはならないと自制した。
あの頃、この方は私を恋人だといってくれた。けれどそれは、ふたりだけの密かな睦言であって、誰かに知られてよいものではなかった。
それに、まだ幼かったこの方が、恋とはなんであるか知っているとは思えなかった。
図抜けて聡明な少女ではあったし、気持ちを疑っていたわけではない。それでも、私を好きだという少女らしい淡い気持ちを大事にするよりは、皇帝陛下をお慕いしたほうが正しいように思えた。
私と同じほども、この方が私を求めてくださっているとは到底おもえなかった。
そして、そのほうがきっと、この方は幸せになれると私は考えていた。
とはいえ、私はずいぶんと苦しんだ。私を忘れないで欲しいと願う気持ちと、私のことなど忘れて帝都で幸福になって欲しいという希望がいっしょくたになって、ときには真夜中に、思い余って馬に鞍を載せたことさえある。
気が違っているとしか思えない振る舞いだった。
しかしながら、周到に用意して帝都へと旅立つほどには狂気に陥ることはなかった。
私には守るべき封土があり、家臣がいた。
私は私のオマージュ(臣従礼)をエリゼ公爵に捧げ、ついてはヴジョー伯爵という栄誉を授けてくれた皇帝陛下にも騎士としての誓いを捧げていた。
私は、ヴジョー伯爵であることをやめる気にはなれなかった。
いや、ならなかった。
エリス姫は皇帝のいちばん気に入りの寵姫として過ごし、10年もして故国に返された。子供ができなかった故のことか、はたまたモーリア王が東征したことに関係するのか、その両方かは謎であった。
いずれにせよ、陛下がオルフェ殿下に姪の姫君を娶わせるのは、エリゼ公国に帝国領土を守れという命令を与えたものと等しい。
そして、姫さまは二人だけで再会した日に、花になどならないと口にした。
髪を切り男装をして男言葉をつかうのは、寵姫という難しい立場に甘んじてきたひとがもうこれ以上傷つくことのないように、御自分を必死の想いで護られているのだと感じた。
再会して、すぐにも求婚しなかったのは、そうした理由からだ。
私は、この方のために私にできることであれば何でもしてさしあげたい。ずっと、そう思っていた。
それなのに……それまで否定されては、生きていてもしょうがないような気持ちになっていた。
私は知っている。
私が真実、オマージュを捧げたかったのは、この方だけだということを。
私が剣を捧げるのは、この、《死の女神エリーゼ》と同じ姿の、誰よりも美しいこの方だけであることを――
「ルネ?」
姫さまは私の瞳をのぞきこむようにして続けた。
「おれはそなたからもう、何も受け取らない。すでに一生分の生きる糧をもらったからな。これ以上は、いらぬのさ」
そう、唇の端をつりあげてつけくわえた。
「姫……さま? それは、どういう」
ゆっくりと顔をむけると、エリス姫は今にも破裂しそうな勢いでこたえた。
「だから、一度もらったものはもう断固としておれのものだ。そなたには何があろうと返さぬといっておる!」
私は、利かん気な表情をみせて立ち尽くしたままの姫君を見下ろした。彼女の漆黒の双眸がひたと私にむけられていた。そこには軽いいらだちと、この方らしい痛みにも似た甘さをふくんでいた。
「エリス姫……」
10年前なら、ここで二人して笑いあっただろう瞬間だ。
だが、今は違った。
「それから、おれを試すような問いかけをしても無駄だ。この10年、そのくらいでは動じないように教育されてきた」
「それは、皇帝陛下にですか?」
てっきり頷かれるものと思っていたが、姫さまはそこで表情をかえた。
そうして何かを覚悟したような顔つきで、ゆっくりとことばを継いだ。
「いや、べつの男だ」
「べつの……」
「ああ」
それから、短くなった髪をいじり、小さな声で続けた。
「そなたが結婚したように、おれにも愛人がいた。だから、恨んでいないといったのは本当だ」
考えなかったことではないが、この方の口からそれを聞くとは思ってもみなかった。
「おれを、皇帝陛下の寵姫に仕立て上げようとしたのもその男だ。
つまりはな、陛下はおれのことなぞ望んでいなかったのさ。だが、その男にはおれを帝都にあげさせたい理由があった。そしておれも、帝都までいってむざむざと何もなく帰れなかった。
おれたちに利用されたふりをした皇帝陛下こそが、いい迷惑だったかもしれぬよ」
ひどく無残な、酷薄なほどの微笑が、エリス姫の顔にはりついていた。
ここにいたって、私は目の前の女性のことを何も知らないことに気がついた。
そして、彼女自身も、そのことを知っていた。
「ルネ、そなたの親切はありがたいが、おれには今のところ返せるものは何もない」
「私は」
「ああ、べつにそなたがおれに何かを返せなどと望んでいるわけではないことくらい知っている。だがな、こんなことが誰かに知られては、そなたの結婚に差し障る。ひいてはこの国の行く末にも影を落としかねない問題だ」
言わずもがなのことを口にしたエリス姫は、そんな自分に呆れたのか、小さく肩をすくめてみせた。
「ルネ、そなたにはもうひとつ、謝らなければならないことがある」
私には、こころあたりがなかった。
「そなたの亡くなられた奥方がこの神殿に寄進された壁掛、あれを宰相に奪われた」
「それは」
もう知っていた。先ほど、長廊下にそれがないことは気づいていた。
「すまない……。あれだけは、持っていかないでくれと頭をさげて頼んだのだが、目溢しされなかったのだ。本当に、申し訳ない。許してくれ」
エリス姫は深くこうべをたれて、私の顔を見てもいなかった。
見られなくてよかったのかもしれない。
だが、私の沈黙をなんと思ったのか、姫さまは消え入るような声でつぶやいた。
「ここに、通ってくるのもあれを見たかったからだろう? 月に一度、必ず見に来ていたと騎士たちに聞いた」
それは事実であったが、おそらくは、この方の想っているとおりではない。
「あのように素晴らしいものを作られた奥方を、そなたはきっと、深く、愛していただろうに……」
怒りと失望に、目の前が暗くなった。
歓びの野は死の色すのことを語る