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歓びの野は死の色すのことを語る

 アレクサンドラ姫は姿勢をただし、すぐさまその場で片膝をついた。
「申し訳ございません」
「しおらしい顔をして謝れば許すと思うか。伯爵に剣を返して持ち場に戻れ」
 エリス姫は私の横をすりぬけて、それでも立ち上がろうとしない彼女の前に立った。
「恐れながら、わたくしの持ち場はあなたさまのおそばでございます」
「他の者は?」
 女戦士の姫君は口をつぐんだままだ。エリス姫の視線がこちらをむいた。私は仕方なく、要求するこたえを口にした。
「食堂で酒盛りでしょうね」
 エリス姫は瞳をほそめ、喉奥で小さく笑った。
「ヴジョー伯がとっておきの葡萄酒の樽なぞ運んでくるから、か……」
 わが領地、《黄金なす丘》でできる葡萄酒は、大陸全土でももっとも美味だと謳われていた。こればかりは、各地の修道院からあがる酸っぱいだけの代物と天と地ほども違うと自負している。
 エリス姫はそれからずいぶんと優しい目をして、自分よりも若いむすめを立たせた。
「いくか。どうせ今宵はすることもない。当然、おれの飲む分くらいは残っているだろうな」
「はいっ、今すぐ席を用意させます」
 はねるような勢いで、小柄な姫君が先をいく。
 高らかに靴音を響かせるその歩みは、先ほどとはまるで違っていた。ふと、ある風聞を思い出したがまさかと思い、それは瞬時に否定した。女戦士については、とかくおかしな風説がまかり通っていた。先ほども、その不見識を窘めなれそうになったくらいだ。
「無腰で帰るつもりか、ヴジョー伯」
 姫さまが呆れたような顔つきで、アレクサンドラ姫の携えたままの剣をさす。
「ご相伴にあずかれるものと思っておりましたが」
 あのむすめは、私に居残れといいたいのだ。エリス姫の意に反して。
「そなたの城でゆっくり飲むがいいよ」
 エリス姫が腕をくんでそう口にした。
「それはつれないおことばですね」
 不満をもらすと、彼女は何事か企む表情でこちらを見た。
「ルネ、馬はどこに繋いだ?」
「裏門に」
「借りるぞ」
 もう踵を返して歩いている。あわてて横に並ぶと、いぶかしげに眉をひそめた。
「ついてくるな」
「お独りでいかせるわけには参りません」
「すぐそこだ。心配ない。オルフェの顔を見たいのだ」
「ここから城までずいぶんあります」
「城ではない。貸してくれぬなら歩いていく」
 姫さまは昔のようにぷいと横をむいてみせてから、立ち止まる。
「オルフェの愛人の家を知っているか?」
 私は首をふって知らないふりをした。だが、彼女はこちらの表情をよんで、知っているな、とつぶやいた。
「案内せよ」
「私は存じません」
「そんなはずはない。オルフェが自分のことを頼めるのは、そなた以外いないはずだ」
 たしかにそのとおりだった。心臓の悪い殿下の身に万が一の場合があったら、私がその後の始末をするよう頼まれていたのは事実だ。
「美人か?」
 一瞬、なんのことを尋ねられているかわからなかった。
「兄の愛人は美しい人かときいている」
「私は本当に知らないのですよ」
 辛抱強くくりかえすと、彼女はすっと目を細めて、なるほど、それは知らないのだなとひとりごちた。
「わかった。オルフェの愛人のことは本人にきくことにする。では、いくか」
 今度は逆方向に、つまりは食堂のあるほうに歩き出す。
「姫さま、お待ちを」
「いいかげん、おれを姫と呼ぶなといっておろうが。それに、早くしないと全部のまれてしまうぞ?」
 振り返りもせずにことばだけが返る。
「私とした約束とはなんですか?」
 私は足をとめた。
 だが、彼女はそのまま背中でこたえた。
「結婚の約束ではないことだけはたしかだな」
「エリス姫」
 天井にこだました声に、エリス姫はようやく立ち止まる。それから聞こえよがしなため息をついて、こたえがかえる。
「約束したわけではない。だからべつに、そなたが覚えていなくともなんの問題もない。ただ、おれが忘れなかっただけのことだ」
「では」
 食い下がった私に彼女はふりかえって凄んだ。
「教えないさ。おれの宝だ。かんたんに譲りわたすと思うなよ。おれからそれをとっていくなら、そなたも何かおれによこせ」
「それは道理ですが」
「だがな、ルネ・ド・ヴジョー、おれは、そなたから欲しいものなど何もない」
 衝撃のあまり、立っていられなくなりそうだった。視界が急速に狭まり、膝が揺れそうになった。どうにか堪えたのは、この方の前で、無様な真似はしたくなかったからにすぎない。
 私には、この世でこれ以上の拒絶があるとは思えなかった。