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歓びの野は死の色すのことを語る

「だいたい伯爵は意気地がない」
 白日夢のような回想を切り裂いたのは、女戦士の姫君アレクサンドラだった。
 私は思わず、背の低いむすめを凝視した。
 まさかすぐ目の前に立たれるとは、いや、扉の外に人がいるとは思ってもみなかったのだ。
「せっかく気をきかして二人きりにしてあげたのに、今日もすごすご引き返してきちゃうんだ。それでも名にしおう騎士の末裔かな」
 己の半分ほどしか生きていない十五歳のむすめに嘲弄されていたが、反論すべきことばさえ見つけられなかった。
 彼女は左手にもった私の剣をくるくると玩具のような勢いで回しはじめた。
 身にまとうのが革甲冑とはいえ、常に戦装束のむすめが目の前にいることが、私には不思議でしようがない。だが、彼女たちがこの国に来て半月もたつ今、みなはそれに慣れてしまっているようだ。
 着飾ればさぞかし美しいだろうと思うのは、私だけではないはずだ。
 ところが、彼女は一切の飾りを身につけていない。そのかわり腰に佩いているのは、その腕で扱えるのかと危ぶまれるほど大きな広刃の剣だ。
 この姫君は、それを片手でやすやすと振り下ろす。
「アレクサンドラ姫、貴女の心遣いには感謝していますが」
「ああもう感謝なんてしなくていいから、早くどうにかしちゃってよ。あたしたちはすぐにもこの仕事をやっつけて帝都に帰りたいんだからさあ」
 あたりを気にしない女戦士の声高なものいいにぎょっとして、出てきたばかりの執務室の扉を振り返る。
 もしも、エリス姫に聞かれていたらどうするつもりなのだろう。
「エリスは知ってるよ。気にしなくて平気。頭のいいひとだからね」
「そうであったとしても、あなたのそのことばは不躾ではないかな?」
「あたしたちが伯爵とエリスをひとまとめに片付けようとすることが、どうして悪いの?」
 大きな緑色の双眸を瞬かせて尋ねられて、私は自分の口から苦笑がもれるのを聞いた。
「私は、悪いとはいっていませんよ」
「つまりは自分たちの立場をもっと尊重してくれっていうことでしょ? でもさ、それはあなた方の都合であって、あたしたちと皇帝陛下のそれじゃあないってことなのよね」
 頭のいいむすめだと感心するが、それは同じくこちらの事情よりも自分たちのそれを優先するだけではないかという不満も募る。
 それが相手に伝わったらしく、彼女は剣を振り回すのをやめた。カツンと音をたてて床に剣先をつけて、挑むようにこちらを見た。
「陛下はエリスにこの国を掌握せよと命じて帰国させた……と、あたしたちは思ってるけど、エリスはそうは思ってないみたいよ?」
「では」
「それは自分で訊きなよ。あたしたちはわからない。エリスは基本的には嘘をつかないけど隠し事は山とするひとだから。どれが嘘かほんとか掴めない陛下よりはましだけどね。
 あたしたちはあたしたちで、エリスの味方になれそうなひとを探してあなたに的をつけただけ。エリスがあなたをいらないと言えば、あたしたちはヴジョー伯爵のあなたでさえ追い払う。単純なこと」
「御眼鏡にかなったことを感謝すべきところかな」
 我ながら卑屈なことばだと思うが、これくらい返しても罰はあたらないだろう。しかしながら小さな女戦士は私の態度など一顧だにせず、自分のいいたいことだけ伝えてきた。
「感謝なんてものはいらないっていってるじゃないか。時間が惜しいんだよ」
 彼女はいらいらした調子でひとつに束ねた紅い髪をはらいあげた。私には、その髪が、人の血を吸ったかのように忌まわしいものに見えた。
「それとも、伯爵はモーリア国の出戻り王女と結婚する話、あれを受けるつもりなの?」
 出戻り……。
 今どきは、夫に死に別れて生家にかえる女性もそう呼ぶのだろうか?
 じっと見つめられ続けているので私は自分の疑問を横において、彼女の質問にこたえた。
「今のままではそうなりますね」
 私の求婚はエリス姫にはねつけられたばかりだ。跪いて熱心に愛を囁いたわけではないが、無下にされればやはり悲しい。
 あの方が私を好いていないことくらい、了解していたはずだ。それなのに、いざその事実を突きつけられれば胸が痛む。
 エリス姫は予期していたとおりの反応をしめした。それは冗談ではなかったかと尋ねかえし、呆れ顔で私を見た。それほど分別のない、察しの悪い男だったかという不満がその表情からうかがえた。
 私はそれ以上、口にしなかった。ただ、二人だけで再会したときから幾らか事情が変わったことだけはお伝えした。
 私には、モーリア王国から結婚の打診が届いていた。
 帝国の顔色を窺い、モーリア王国やレント共和国と反目せずにやっていくには政略結婚は重要だ。エリゼ公国の次期公爵であるオルフェ殿下が帝国の姫君を娶るのであれば、モーリア王国としてはヴジョー伯たる私に白羽の矢をたてるのも故のないことではない。
 ヴジョー伯爵家はもとより親帝国派ではあるが、だからこそ、そこに意味があると宰相ゾイゼは考えていたようだ。そしてまた、オルフェ殿下も同じように思っておいでのようだった。
 それ故に、エリス姫は苦笑して私を追い払った。
 10年前に別れて以来、私はエリス姫の望まぬことばかりしてきたに違いない。
 姫さまは故国への音信を途絶えさせたことはなかった。兄のオルフェ殿下はもちろん、ご両親である公爵夫妻、それから教育係であったわが母にまでこころのこもった優しく楽しい手紙を返し、誕生日には異国の珍しい贈りものまで届けさせた。
 私は、自分にだけ便りがないことで、自分だけが疎まれたのだと思った。
  では、あのころの私に何が言えただろう。
 もしも貴女様が帰ってきたら結婚していただきたいのです……そう、本心だけをいえばよかったのだろうか?
  お慕いしておりますと、己の真実をお伝えすれば、それでよかったのだろうか?
 たとえあの方が、皇帝陛下の寵姫となるために帝都にあがるのだと誰もが知っていて、それでなお、愛していると口にしても許されただろうか?
 私は二十歳で、彼女は十二歳だった。
 貴族の娘ならば、初潮さえ迎えていれば結婚できない年齢ではなかった。まだまだ幼い子供のようなところもあった一方、母いわく、どこに出しても恥ずかしくない大陸一の淑女でもあった。
 そして事実、血の道が通ったら帝都へよこせと、皇帝陛下から勅命がきていた。
 帝国領の小国の王子や王女が、「留学」という名で「人質」をとられることは歴史の上では幾度もあった。だが、これほど露骨な招聘は初めてのことだった。
「かわいそうに」
 女戦士のつぶやきが、冷たい大理石の床に落ちた。
「誰がですか?」
「誰って決まってるじゃないか。その王女様だよ」
「それは、そうかもしれないですね」
 吐息とともに、本音が出た。
 私は女性を幸福にできるような男ではないと思っていた。亡くなった妻も、私といて幸せであったとは考えられない。でなければ、あのような物はつくらなかったのではないかと思う。
「かもしれないじゃなくて、そうだよ。ほんと、男なんてろくなものじゃないね。
 それにエリスにも同情する。どうしてこんな男との約束を律儀に守るかなあ。エリスなら他にもっといい男がいたのに、あの都でいっとう素晴らしい場所にいられたのに、義理堅いっていうかなんていうか、ばかだよなあ」
 約束……私は、エリス姫となにか約束しただろうか?
 呆然としていると、女戦士の姫君は頤をあげて指を突きつけて言い放つ。
「あ、その顔は、エリスとの約束を覚えてないなっ」
 そう……私は実のところ、彼女の口にした『約束』が何であるかおぼえていなかった。
「うっわあ、酷いなあ。ほんと、どうしようもないね」
 断罪はもっともなことと思えたが、このむすめがそれを知っていて、約束をしたはずのとうの自分にそのことを言わない姫さまに苛立ちそうになった。理不尽なことは百も承知しているが、責められるか詰られるかしたほうが随分とましだ。
「騒がしいぞ、サンドラ」
 そのとき、背後からエリス姫の叱責の声がとどいた。