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花うさぎのことを語る

  • ---第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」10-----
  •  あなたのベッドだと、わけもなく狼狽えた。眠っているあなたに触れるのはどうしてか怖かった。付き合い始めのころがそうだったように、うっかり起こしてしまうような気がした。おれが寝返りを打つたびに目を覚ますあなた、あなたが欲しくてほしくて堪らないのにあなたが出かけるのを笑顔で送り出すじぶん――抱き合っているときはこれ以上なくじぶんたちは相性がいいと信じられるくせに、ふとしたときに何かを互いに犠牲にしてはいまいかと疑っていたあのころの感覚がこの身に甦る。
     それでもおれは、この腕のなかにあなたを抱き入れたかった。肉の薄いしなやかな背中をあたためて、長い黒髪に顔を埋めたかった。
     もしそれで、目を覚ましたらそのときだ。
     いや、そもそもおれは、あなたに目を覚ましてじぶんと抱き合ってほしいと願っていたはずだ。それを思い出してひとりで面白がった瞬間、あなたの端末が高らかに鳴り響いた。
    ヘッドボードにあるそれを思わず手に取った。店長だった。
     そのままあなたを見る。目を覚まさない。こんなことは、あなたと付き合い始めてからはじめてのことだった。
    その驚愕のせいにして、おれは身体を起こしてあなた宛の電話に出ることにした。
     はい、とこたえただけで相手はおれと察した。さして驚いたふうもなく、なんだおまえ、けっきょくそこにいるのか、と笑った。おれはおれで、ああ言ったのに舌の根も乾かぬうちに、という想いが首をもたげたゆえに、何か御用ですか、とかなり硬い声で尋ねた。が、すぐさまそれを後悔した。おれは、あなたのことになるといつも少しばかりとち狂う。店長がああ言ったなら、それはそのとおりなのだ。
     だからすぐ言い添えた。
    「あの子なら、昨夜は教授と一緒にこのひとの帰りを待って、今日昼過ぎに教授と、迎えに来た彼氏といっしょに帰りましたよ」
    「……そうか、ありがとう。それが知りたくてな」
     ほっとしたような、がっくりしたような、微妙な間があった。おれはそれに気づかないふりをした。あなたはまだ眠っていた。ひとの話し声で起きないことはかつて一度たりともなかったというのに。
    「あいつは風呂にでも入ってるのか」
     店長も、あなたをよく理解していた。おれは首をふりながらこたえた。
    「いえ、眠ってます」
     おれの横で、とは言わないでおいた。
    「それは……よかったな」
    「ええ、本当に」
     おれは深くうなずいた。
     よかった。そう、よかったのだ。
     あなたは、おれ以外の人間と寝たことがある。それは知っている。おれと出会う前、そしてその後も。
     けれど、
     けれどただひとつ確かなことは、
     あなたは、おれ以外の誰とも、同じ寝台で眠ったことがないひとなのだ。
     おれは、
     おれはそのことを、その意味を、もっと大事に考えないといけなかった。
     夢使いであるあなた、
     おれは、その寝姿を知るこの視界でただひとりの人間なのだ。
    店長がこちらの気持ちを見透かしたのか、ことさらに言い聞かせるような声で囁いた。
    「もう道に迷うなよ?」
    「店長、」
     続けようとしたところで、相手は息だけでわらった。
    「長話しするとせっかく寝てるおまえの《夢使い》が起きちまうな。夜分に邪魔してすまなかった。おやすみ、またな」
     おやすみなさいと返しながら、何故だか泣きたいような気持になっていた。おれたちはあの店で、出逢ったのだ。あのコンビニエンスストアで。
     おれはそう遠くないうちに、あのひとからの推薦状を受けとった話しを店長にすることになるだろう。それだけでなく、あなたといっしょに海外にいくという件も。
     思い返すまでもなく、店長とあのひとの繋がりもまた、この海の彼方にあった。そして、
     そう、そして……

     おれの《夢使い》――……。

     おれに夢見式を施してくれたひとこそが、あのコンビニに誘ってくれたのだ。都会に出てはじめて、おれが自分の居場所を見つけたのはコンビニエンスストアだった。
     あなたの傍らへと、あのひとこそが、このおれを導いてくれたのだった。

     おれはいつか、そのことをあなたへと伝えられるだろうか。あなたを徒に傷つけ苦しめることなく、ただその「事実」を口にすることができるのだろうか。
     わからない。
     わからない。けれど、
     おれはようやくにして、あのひとを「夢見る」ことを許せるような気がした。ただひたすらに忘れ去るのではなく、無為に思い返すのでなく、文字通り「夢に見る」ことを、恐ろしく痛ましい罪としてでなく受け入れることができそうな気持ちになっていた。