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花うさぎのことを語る

  • ---第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」3-----
  • 「ただいま戻りました。昨夜はご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
     あなたは先ほどと変わらない穏やかな声で頭をさげた。その悠揚たる物腰にはおぼえがあった。あなたは本来、自分自身を頑ななまでにしっかりと持ったひとだった。
     教授は呆然とした様子であなたの謝罪を受け止めて、そういう自身に気づいたらしく苦笑した。受け身にまわるとは想像していなかったのだろう。と同時に、おれにその驚愕を見つめられることも。
    「心配は、していませんよ。約束してくれましたから。それより、こちらこそ勝手にあがりこんで、お気を悪くされたかと」
     教授の言葉にあなたはゆっくりと首をふって、彼女に鍵はあずけてあるのできっと家で待っていることかと思っていました、と微笑んだ。あなたと教授は見つめ合い、互いの了解をしずかに確かめていた。それはおれに深い安堵をもたらすとともに、幾らか嫉妬の念を抱かせた。教授に後者を隠し得たかどうかはあやしかった。
     するとあなたの弟子が、ふたりのそばで立ち尽くすおれの腕にそっと手を触れた。お待ちかねだよ、と。おれはあなたへと声をかけた。家族にあなたを紹介したいと。
     あなたは少し緊張した面持ちでうなずいた。だからおれは笑ってつけたした。家主のいない家に無断であがりこむような家族だけど、と。
     それを聞いたあなたはおれではなく、じぶんの弟子を見おろした。呼んだのはきみだね、と。彼女は深くしっかりと首肯した。あなたは彼女に背を押されるようにして部屋へ入っていった。
     ほどなくおれは家族それぞれの歓声のようなものを耳にした。そのどよめきのあとに若い娘らしい晴れやかな声が響いて、それとはっきりわかる歓迎の声に湧いた。おれはそこで故意に足をとめた。
    「あの子にすっかり役目を奪われましたね」
     おれはそれに何とこたえたらいいかわからなかった。そういう気持ちをくみとったかのように、教授がおれの顔を見ずに小声で囁いた。
    「あなたはそろそろ、その常に一歩ひく態度を変えたほうがいい。彼はそういうあなたを理解しないでしょう」
     教授の背中はおれの返答を期待していなかった。だからおれも、何も言わなかった。ただ、このひとが恩師であることを今さらのように思い出していた。それこそ、この今になって思い至るのはいかにも行き届かないことだと考えながら。そしてまた、あのとき漏らした「遠慮した」という言葉の意味が何をさすのかも。いくつか吐いた嘘のことも。

     そういえば、おれはすっかり忘れていたのだが、あなたはとてもひとあたりがよく感じのいいひとだった。あなたはきっと、夢使いとしての職能ゆえにそれを身に着けたというのだろう。場合によっては、独り暮らしの若い女性の家で一晩過ごすこともあるのだ。ほんの少しでも嫌悪感や不信感を抱かせるような人間であっていいはずがない。
     そういうあなただからこそ、なのだろう。あなたは少しも緊張していなかった。寛いだ様子で輪の中心にいた。おれの家族に不躾すれすれの質問を矢継ぎ早に浴びせかけられているというのに、楽しそうに微笑んでいた。それだけでなく、機知にとんだ応答で、少々気難しいところのある父からもしっかり笑顔を引き出していた。
     母はといえば、あなたに会えただけでほんとうに感激しているようだった。まるで憧れのひとを目の前にしたかのように頬を紅潮させていた。
     その様子をみた姉はおれの横に立ち肘でつついてみせた。おれは苦笑でうなずいた。悪くない気分だった。
     あなたは母に付き添って妹の車椅子の横に膝をつき、じぶんの名前をゆっくりとした調子で告げて挨拶をした。妹は機嫌よく笑った。それを見ておれも、その逆側に座りこんであなたの弟子がさしだした缶ビールを煽ることにした。
     あなたはそれがどこから出てきたのか尋ね、彼女がおれの姉といっしょに買い出しに出たのだとこたえると大変に恐縮した様子で姉に頭をさげて、つづいて彼女を労った。
     弟子はといえばぴたりとあなたの傍に腰をおろし、先生が冷蔵庫空にしてるからほんとに心配した、と何気ないふうに口にした。おれに聞かせるようでもあったが、母のほうがそれに素早く反応した。あなたがすまないと謝る横で、おれに視線を投げてきた。
     あなたはそれに気がついた。
     そして、おれへと微笑みかけた。
    「よく食べる人間がいないと不精するってことがわかったよ」
    「じゃあこれからは一週間分作り置きしておきますよ」
    「せっかく立ち寄ってくださったご家族の前で料理がまるで出来ないみたいな言いぶりはよしてくれ」
     あなたが眉間にしわを寄せて抗議したので、弟子が横で吹き出しながらおれの肩をもってくれた。
    「先生、そこは甘えるところだよ。じっさい食べなくなるもの」
     おれたちの横で、母はなにか言いたそうな顔つきでいたけれど何も口にしなかった。
     おれはビールを干しあげて立ちあがりおかわりをもってくると言いおいてキッチンへと向かった。あなたがすぐに腰をあげたのを背中に感じながら。