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歓びの野は死の色すのことを語る

外伝・空が青いと君がいった日(再掲すみません)

 わたしがとぼけると、ジャンは尋ねたことをあからさまに後悔したように口を曲げた。その顔をみて、自分が少し嫌になった。自己嫌悪を払拭すべく、わたしはすぐさまその名を告げた。
「マリー・ゾイゼ。この国の宰相閣下の息女にして、アラン・ゾイゼ神殿騎士団長の妻だ。もっとも、あまり公式行事にも出席しないから話したこともないけどね。彼女もわたしの顔をそれと知っているかどうかわからない。それで?」
「それでって、なんですか?」
「気になったから、わたしに尋ねたんだよね? 他に聞きたいことがあれば聞けばいい。あのご婦人の個人的なことは知らないが、この国の貴族社会、またはヴジョー伯爵家郎党が知っているようなことなら答えられる」
「聞けばって、別に、俺はその……」
 後ろに行くにつれて、彼の声が小さくなった。
 マリー・ゾイゼの顔に火傷の跡さえなければ、彼女の名がひとの口にのぼらない日はなかっただろう。ある種、凶暴なほどの美貌をたたえたエリス姫と違い、誰もが安心して見つめることの許された淑やかな女性だった。彼本人が意識しているかどうかは別にしても、ジャンのような若者が憧れるに相応しい、年上の美女……。
「立派な方だと、尊敬してるだけですから」
 わたしの感慨を打ち消すように、ジャンがいった。彼はこちらの勘繰りを察知して、すぐさま訂正を促したわけだ。だが、かえってそれが余計に興を引くものだと、わかっているだろうか? 
 それでもわたしは話題を変え、以前から気になっていたことを尋ねていた。
「太陽神殿の教義では、堕胎は許されてなかったよね?」
「そうですが、はじめに断っておくけど、さっき連れて行った女性は堕胎しにいったわけじゃない。恋人から殴られるって相談されたんですよ。まあ恋人っていってもお察しのとおり婚姻関係にない『旦那』、なんですが。別居をすすめたら住むところがなくなって困るというので住み込みの手伝いの仕事を斡旋したら、彼と別れるのは嫌だとか言い出すし、その度ごとに言うことが違って希望をきいても要領を得ない。俺もゴチャゴチャしてわけわからなくなって、そういえば古神殿では女の人を無条件で受け入れてくれてたなって思い出した。とりあえず話だけでも聞きに行ったらいいと思って、連れて行くことにしました」
「ルネさまに相談せずに?」
「彼女が、神官様に話すのは絶対に嫌だって言い張るから。嫌なものを無理にさせるのは駄目でしょう?」
「まあ、そうだね」
「太陽神殿じゃもともと女性は神官になれないし、女の人のこと考えられてないんですよ。さっきの堕胎の話にしても、女の人が望まない交接でできた子でも生まなきゃいけないのかって尋ねても、大神官様は命は命だとおっしゃるだけで、平行線でどうにもなりゃしないんですよね」
 実のところ、わたしは話の内容より「交接」という神殿用語を使う彼の物言いに面白みを感じた。今この場でそんなことに意識が及ぶとはろくでもないと思ったが、わたしは結婚しないし娼婦以外を相手にしないと決めてしまっている。われながら歪だと思うが、女とは、それ以上のものではない。
 ジャンはかつて、貴族の娘と結婚寸前の仲になったことがあるそうだ。その約束が破棄されて自棄をおこし神官資格を剥奪されて帝都を追われたという噂だが、今回のはなしを聞くかぎり、それで女嫌いになったわけでもないようだ。懲りないというのか、奇特というべきか判じかねるが、畢竟やさしいのだろう。
「その件も含め、色んなことが俺にはわからないと申し上げたら、それ以上は自分で考えろっていわれたんで、自分で考えてます」
 わたしが息をのんだことに、ジャンは気づかなかった。そして、手綱をひっぱって大股に歩き出した。
 彼が教義に外れた異端というべき思想を持つことについて、大神官から許可を得ているのみならず、それを勧められているとはどう考えても極めて異例の出来事だ。とはいっても、本人はそのことに頓着していないようなので口にするのをやめた。
 わたしには、あの老獪な商人上がりの大神官が、わが主君ルネさまにこの若者を預けたのが深謀遠慮の故と思えた。それさえわかれば、それでいいのだ。
「俺、今すぐじゃなくていいから、あの方から話を聞かせてもらいたいと思うんだけど、違う神をまつってるわけだし、それはやっぱり難しいかなと……」
「そうだね。まずもって身分が違う。この場合の身分は宗教的なそれだけど、いずれにせよ君が偉くならないと、発言の場は与えられないよ」
「そのくらいのことは、わかってますよ」
 ジャンの声が少し尖ったが、落胆も感じられた。わたしは未来ある青年の希望を挫いたことで些かの自己嫌悪をおぼえたが、先ほどのそれよりは後味が悪くなかった。現状認識が大事だということを、彼はよく理解している。お節介にすぎる発言だっただろう。
「アンリさん、ということで、神官様にはこの件は内緒にしてください。俺の独断でやってることなんで。何かあったらあの神殿にとってヤバイでしょ」
「わたしが、ルネさまの失態につながるかもしれない秘密を見過ごすと思ってるのかな?」
「それを言うなら、あなたが娼婦を買ってるのは、戦のための情報収集と風聞を流すためだってばらしますよ?」
 その脅迫にはまるで威力がなかった。ルネさまは疾うにそれを知っていらっしゃる。実は、それとなく釘をさされたこともある。先鋭的に動きすぎるなという意味だった。
「われらが神官であるルネさまを見くびってもらっては困るな。それほどあの方には器量がないか?」
「そうじゃなくって」
「迷惑をかけたくないだなんて言い訳は、一人前になってから口にするといい。わたしは君に何を言われても平気だ。自分の身の処し方くらい知ってるからね」
 痛烈な反駁がくるものと思ったのに、彼は口をつぐんでうなだれた。それから。
「……わかりました。自分で、神官様に報告します」
「いやに素直だね?」
「そうですか? まっとうに考えただけのことですよ。破門も見据えて、考えます」
 ジャンは言葉通りに、真剣に己を見つめていた。
 捻くれ者。自らそう名乗ったこともある若者は、今では太陽神殿の教義そのものにまで視野に入れて物事を問い詰めているようだ。