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『歓びの野は死の色す』つれづれのことを語る

き~んよ~び~ららら♪
さて今日は、う~ん、とやっぱりジャンとエミールかなああ?

>僕は、あの言葉に導かれるように、彼に会いに行ったのです。
>アンリさんの言葉を思い出したおかげで、今の僕があり、ジャンの今があります。

たぶん、フランス文学にさほど詳しくなくとも「ジャンとエミール」という名をふたつ並べられたら、ジャン・ジャック・ルソーの『エミール』を思い出すのではないかと
むろん頭の端では意識されてますw
それだけでなく、このジャンは後に「聖ジャン」とよばれるひととなり、すなわちそれは洗礼者ヨハネであり聖ジュネでもある、というふうにわたしのなかではなってます
そして彼らの「事件」はそも、パッツィ家の叛乱がモデルであり、これをどこからどう書くのか、描くことができるのか、ていうのはもうずっと、この著名すぎる事件を知ったときから考えていたことで、わたしはいつか「歴史モノ」としてそれを書くことがあるだろうというのはわかっているのですが(ルネサンスもの書くから)、
『歓びの野は死の色す』という物語の世界観のなかで思っていた以上の「複雑さ」を帯びてしまい(しまいww)、ある意味では「練習」と思ってきたことが、実は「本番」同等、もしくはそれ以上にむずかしくなっている(リアルな事件には立派な歴史家の著書があるのでなあ)、ていうのは楽しいけどツライ誤算でもあるなあ、みたいなw
権謀術数が好きなんです
そういうことを言いだすひとはたいていすごく単純なんじゃないかと訝しんでるのですが・・・