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歓びの野は死の色すのことを語る

外伝・風に舞う蝶(再掲すみません)

 ここまで話してきて、アンリさんは顎に手をあてて考えこむような顔をして、問題の石を指差しました。
「その石って、これのことだよね?」
「そうです」
「元に戻ってる……?」
 僕は、深くうなずいてから口にしました。
「ジャンは始めから、次の見回りのときには元の場所にあるはずだから心配するなと言ってくれていたのです」
「ああ、そうなんだ。じゃあその通りになってよかったね」
 そう言ったアンリさんは僕の顔を見て首をかしげました。
「あれ? エミールは、あんまり嬉しそうじゃないね」
「僕も安心して喜びたいのですが、ジャンが、その次にはたぶんまた移動されてると思うからって、あのしれっとした調子で言うんですよ!」
「あ~、それ、きっと当たってるねえ」
 アンリさんには思い当たる節でもあるのか、いったん顎をひいて瞼を伏せ、それから肩を揺らして笑いはじめました。
「やっぱり、当たってますか?」
「学がなくとも農民たちだって賢くしたたかさ。この世の中、誰しも馬鹿じゃ生きていけないよね。根負けしたほうが損するって話だよね」
「きちんと交わした契約を破るのが、強かですまされることですか?」
「ジャンは何て?」
「え」
「ジャンは農民出だろう? 彼は、何ていってたのかな?」
 先ほどと同じ質問に、考えこみました。いえ、こたえはわかっていたのですが、僕はそれを言いたくなかったのです。そして、言いたくなかったのは、彼のことを認めたくなかった気持ちと一緒です。
「ジャンは……、農民たちは貧しいんだから、そのくらいのズルは認めて許してやらなきゃって。こっちが尊敬できる仕事をしたら、彼らのほうからすすんで手伝いに来るし邪魔もしなくなるって……」
「至極立派な正論だねえ」
 アンリさんの口許に笑みが浮かんでいます。正直にいうと、僕だってそう思いました。立派すぎるくらいの言葉です。
でも、現実的には農民たちはこちらが武力行使に訴えないとみて、のらりくらりと所領地を掠め取ろうと算段しているのです。厳しく処断しなくともいいから、いえ、こちらのほうに権力があるからこそ、そのようなことに及ぶ前に石壁を築いてしまえばそれですむ話だと僕には思えました。
「ですが、こんなこと、この先ずっと続けていくなんて僕には時間と労力の無駄にしか思えないんですけど……」
「だから囲ってしまえっていうのがエミールの意見だとはわかる。実際、この国でも特別に良い葡萄が取れる畑はみなそうなっているしね。わたしもそんなふうに思うこともあるけど、まあ、そうしてしまったら、ジャンの思わぬ一面なんて見られなかったからいいんじゃない?」
「アンリさん?」
 僕が目を見開くと、アンリさんはにこりと微笑みました。
「エミールは、ほんとはジャンを尊敬したいんだね?」
「それは……その、誰のことも、尊敬できればいいじゃないですか」
「ん~、わたしはそんなふうに思わないけど、そうだったら幸せな世の中だよね。ただ、身近な誰かを尊敬したいと思うことと、誰も彼もを尊敬したいと願うことはまったく意味の違うことだよね」
 アンリさんは額にかかる淡い金髪を指ではらい、こちらを向いて続けました。
「それは別にして、この神殿のことは、エミールとジャンで話し合っていったらいいと思うよ? 二人とも、若くて賢くて情熱があって、何でもやれそうじゃない?」
「アンリさま、そんな」
「わかってると思うけど、ルネさまが神殿を出たら、わたしもニコラもついていく」
 今までにもそのことは考えてきましたが、こんなふうに面と向かって言い渡されることになるとは思ってもみませんでした。
「そんな……僕たち二人でなんて、無理です」
「無理でも何でもやらなきゃ」
 アンリさんが綺麗な顔で微笑みました。それから、呆然としていた僕を見て、まあ、まだもうちょっと先のことだよと、安心させるように言いました。それを聞いて、ようやく僕の肩が落ちました。すると、アンリさんが遠くを見るようにして、呟きました。
「二人は滅多にないくらい、いい組み合わせだと思ってるんだけどねえ」
 その、小さな囁き声は、春風にさらわれていきました。
 僕はそれを、胸にとどめることをやめました。捕まえて頼りにするには、ジャンのことが、僕にはまだ、よくわからなかったからです――皮肉屋でひとを小馬鹿にしてばかりいるジャンが、僕などよりほんとうはずっと優しいということも、我慢強いということも、どんなにか信仰に篤いということも、僕にはまだ、ちっともわかっていなかったのです。
 もちろん、アンリさんに言われなくても、ジャンが賢明だとは知っていました。それは疑いようもないことでした。それゆえに僕はジャンを羨ましく思っていたのですし、才能があるのに努力しない彼に苛立っていたことも事実です。あのころの僕が彼を理解しなかったのは、自分のことだけで手一杯で、彼に負けたくなかったからです。
 そして――アンリさんのその言葉を思い出すのが10年も先のことになるとは、そのときの僕には予想もしないことでした。
 それは、後の戦で知将として讃えられたアンリさんらしい、先見の明のある言葉というより、長い年月寝食をともにしてきた「仲間」の、心からの励ましだったと思います。
 それにしても。
 あの一年は、僕にとって生涯忘れられないものとなりました。
 思い出すだけで喉が引き攣れるような恐ろしいことも、涙が止まらなくなるような悲しいこともたくさんありました。
 僕はこの国を離れましたし、ジャンもあの太陽神殿を出て行きました。
 あの年以来、僕は打ちひしがれて生きていました。何もかもが信じられない気持ちになりましたし、信仰自体を捨てようと思ったことが幾度もありました。
 あんなに愛した太陽神殿そのものを、僕は憎みました。
 むろん、アンリさんのことも。
 けれどその後、僕は色々なことを知りました。僕はあまりにも無知で、ジャンの言うとおり、本当の意味で世間知らずだったのです。
 ジャンが神官見習いだけでなく正式な神官職の資格を持っていたことも、彼が14歳という異例の速さでそれを手にしたことも、そしてまた、ふとした過ちでそれらを失ったことも知りました。
 アンリさんがどうして結婚されなかったのかも、わかりました。庶子であった彼は、同じ身分の女性と結婚することは難しかったのです。
 また、あの事件のからくり、その遠因や顛末も、時間をかけて調べあげることができました。
 それは、あのときの僕たちには本当にどうしようもないことでした。
 今なら、あのときの何もかもが仕方のなかったことだと言えるような気がします。
 そして、ようやく精神的な安寧を得たある日、僕の瞳にあのときの蝶がうつったのです。あの日、目の前を横切っていった蝶が、再び僕の瞳にうつり、あのときの言葉も蘇りました。
 僕は、あの言葉に導かれるように、彼に会いに行ったのです。
 アンリさんの言葉を思い出したおかげで、今の僕があり、ジャンの今があります。 

 いま、僕たちはこの国で共に太陽神殿の聖なる炎を見守っています。
 まことに頼りない小さな炎ではありますが、そのかわり、ひとびとのすぐそばにあり、掌をあたためることの出来る炎だと思っています。
 あの日、何でもやれると励ましてくれたアンリさんの言葉を信じて、ジャンと共に羽ばたいていきたいと願っています。

 了