外伝・風に舞う蝶(再掲すみません)
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一月ほど前の、見回りのときのことでした。
西側の一角の石が動かされていて、それを農民たちに抗議したとき、ジャンは彼らのはなしを聞いただけですましてしまいました。僕が口を挟もうとすると、お前は引っ込んでろといって後ろに押しやるのです。
ジャンは、同じことの繰り返しや行き当たりばったりで要領を得ず、まったく整合性のない農民たちの言い訳を、一言も漏らさず耳に入れていたようです。僕は嘘をつく人間が大嫌いなので実は途中で苛々してしまったのですが、ジャンがその場を動かないものですから、黙って彼の後ろに立っていました。
はじめは僕たちが年若く物慣れないと見て、盛んにまくしたてていた彼らですが、はなしを聞き遂げようとするジャンの態度に、次第に落ちつかなげに瞳を泳がせ、唇を舐めたり、いつ洗ったのかもわからない垢じみた服の裾をつかんだりしだしました。五人一斉に話していた彼らがついには黙り込んでしまったのは、自分たちが事を偽っていると認めたのでしょう。僕は、ジャンがそこでいつものように舌鋒鋭く反論するものと思ったのです。
ところが、彼は勢いの弱まった農民たち一人一人に労いの言葉をかけ、僕の腕をつかんでそこを後にしたのです。
吃驚して声も出ないとはこのことでした。
いつもは一番年長のニコラさんにだって食ってかかるのに、あんな農民たちの戯言に一言も返さず背中を向けるなんて、まったくもって彼らしくありません。
帰り道、僕は太陽神殿としてはあんな嘘を認められないと口にしました。するとジャンは、お前、ちっとも優しくないなあと言ったのです。
誓っていいますが、僕はただ、農民たちの不正な行いに腹を立てただけです。彼らの窮乏については同情しています。
そういう自分の気持ちを説明しようとしたところ、ジャンは今日のことは神官様には言うんじゃないぞ、今のあの方はそれどころじゃないんだから、と念を押してきました。それにはしぶしぶ頷きました。僕もジャンも、神官さまの恋を応援する仲間であることにはかわりありません。
とはいえ僕は、石がずらされていたことが気になって仕方ありませんでした。
次の見回りの時にはわかってしまうことですし、あのままにしておいて職務や報告を怠ったとみなされるのも我慢できません。といって、ジャンに事の次第を任せてしまったくせに、僕と同じ神官見習いのニコラさんにこっそりと影で相談するのも気が引けました。
それに、あの時、ジャンに言われたとおりに引っ込んでしまった自分がとても情けく感じました。相手が怖かったわけではありませんが、僕たちは無腰でしたしあちらは大人数でそのうえ鍬へ鋤を持っていました。僕のなかには面倒を厭う怠惰な気持ちがあったことは否めません。そして、ジャンはどうするつもりなのか、まったく見当がつきませんでした。彼が僕に一方的に責任を押し付けるとは思いませんでしたが、何しろ役職は僕のほうが上なのです。責めを負わずにすむとは考えられません。
一晩は我慢できましたが、二晩目は寝付けませんでした。
三日目の夜のこと、僕は寝床から起き出しました。
夜間の外出などしたことはありません。ですが、日の出から日の入りはしなければならないことが目白押しです。神官さまのご予定をみなで振り分けているのと、自分自身の神官職試験のために時間が自由になりません。
僕は、禁を破って外に出ると決めました。
街の門は閉ざされていますが、神殿横の小川の岸壁に沿った秘密の抜け道を通れば外に出られると知っています。
僕は隣の宿坊で寝ているジャンを起こさないよう、気をつけて身支度を整えたつもりでした。それなのに、彼は扉の外に腕を組んで立っていたのです。
「エミール、お前、どこに行くつもりだよ?」
「どこって……ジャンのほうこそ」
見れば、彼も寝巻き姿というわけではありませんでした。
「俺はお前が寝返りばっかうってうるさいから起きちまっただけだよ」
「それは、ごめんなさい。悪かったと思います。でも」
「でもじゃないだろっ。お前、こんな夜中に外に出るなんてどんな了見だよ? 野伏や狼に襲われるぞ」
「野伏はともかく、今年は狼の被害は出ていません。剣は持っていきます」
「つうかお前、夜間外出なんてそもそもが規則違反だろ」
「それはこちらの言い分です」
僕の言葉に、ジャンは尖った肩をすくめて笑いました。また馬鹿にされるかと用心して彼の顔を見あげると、ジャンはゆるゆると首をふって下をむきました。
「ジャン?」
「俺も気が小せえほうだが、あんなくらいで、お前も意外にそうだよなあ」
「なっ、そんなこと……」
ありませんと言いたかったのですが、それはあまりに強がりです。とはいえここで認めるのも癪に障るので、肩をそびやかして言い返しました。
「失敬な。気が小さいのではなく、職務に忠実なだけです」
「そりゃあ詭弁ってやつじゃねえか?」
「ジャンのほうこそ」
そのとき、式服姿の神官さまが現れたのです。
「こんな夜中に騒ぎとは、何があったのですか?」
僕たちは二人して飛び上がるほど驚いて、固まってしまいました。神官さまは、ジャンが申し訳ありませんと言ったあと唇を引き結んだままなのを見て眉を顰め、今度は僕のほうへと顔を向けられました。
「エミール、剣など下げて、どうするつもりだったのですか?」
穏やかな声でありながら、神官さまが怒っていることは間違いありませんでした。みぞおちのあたりに氷を投げ込まれたように身体が冷え、質問にこたえようにも唇が震えていました。
就寝の時間に起きていることを叱られたのなら、こんな気持ちにはならなかったでしょう。神官さまは剣を遠ざけておくことこそが、民人のこころを安んじると説いておられました。《死の女神》の神殿騎士たちが堂々と長剣を佩いて歩く姿は颯爽としていますが、威圧的だと感じるひとが多いのは事実です。僕自身、そんなふうに思っていたはずなのに、こんなものを持ち出してしまったのです。
「神官様、俺が、エミールに剣を見せてもらいたいと言っただけです」
ジャンの声に振り返った神官さまは、頭痛でもおこされたかのように端正なお顔をしかめられました。
「ジャン、そなたは剣を嫌っていたはずだが」
「嫌いだからこそ、どんなものか知りたかったのです。ともかく、騒ぎを起こしたのは俺ですから」
「……私には、これがそういった話には見えないのだが?」
神官さまの口許に苦笑が浮かんでいるのがわかりました。ジャンもそれに気づいているようでしたが、それ以上何かを言い募ることはありませんでした。
神官さまは、仕方ないですねと呟いて、ふたりとも罰として明日は一日写字室で勉強なさいと言いました。食事が抜かれるので罰といえば罰かもしれませんが、上級試験を受けようと思っている僕たちにとって、他の作務を免除されるのは応援以外のなにものでもありません。
おそるおそる顔をあげた僕の肩を、神官さまの大きく温かな手がそっとくるみました。
「エミール、そんなものは置いてやすみなさい。ジャンも、昼間の作務で疲れているのだから眠りなさい」
僕は、恥ずかしさに俯きました。だからジャンがどんな顔をしているのかも、見ることができませんでした。
次の日は二人ともずっと無言のうちにすごしました。静謐を保たねばならない場所なので当然ですが、視線が合うこともありませんでした。
僕は、一方的に庇われたことに腹をたてていましたが、それを口にするのも申し訳ないとも感じました。よくよく考えれば彼は僕と一緒に外出する気でいたのです。彼自身も気にかけていたのでしょうが、たぶん、僕が石のことを気に病んでいるのを心配してくれたのだと思います。