外伝・月の石
10
「では、そのいたいけな姫君はどうなりますか」
わたしの問いに、陛下は肩をすくめて一笑した。
「それはその姫君の考えることで、己の仕事じゃない」
「酷いことを」
「酷かろうが、己は皇帝として己の面倒を見るだけで精一杯だ。
誰もがそうさ。
だがな、その姫が真実、女神の娘なら、己たちが束になってかかってもどうにもできるものじゃなし」
「なるほど。それは、そうですね」
「ああ、そうさ」
陛下はそう居直るとまた瞳を閉じた。
「もしも、子が生まれたら」
わたしの問いには間をおかず、
「子供が生まれたら生まれたでそのとき考えればよい」
「海に流すような真似はしないですみましょうか」
陛下は眉を寄せて嘆息した。
「そなた、己の世継ぎが欲しかったのではないか?」
「ええ」
「ならば流してどうする。
そなたが月神を気取りたくばすればよい。だがな、子はどこでどう生まれようと自分で生きていくものさ。話の始めどおり、己の子にしていくいくは帝位に就ければよかろうが」
「陛下?」
「むろん、出来が悪ければ帝都を追う。また帝国に害なすと断じれば始末する。それは今も昔も変わりない。
そなたはここまでやってきた。この己のいる黄金宮殿へ這い登ってきたのだから、その子にも同じ道を用意してやればいい。あとは本人次第だろう」
「皇子殿下たちには何と説明を?」
「そんなものはいらん」
鼻で笑い、陛下は再びわたしを見た。
「神の契りと血の縛りがわれらをつくり、この大陸を繋ぎとめておる。それには逆らわんと決めている。
己は、この帝国を他の親族よりうまく治められると思って帝位に就いたが、本心をいえば、次の皇帝が赤の他人であろうが異教徒・異国人であろうが構わぬよ。
いや、それでうまく収まるものならば、皇帝という位さえなくていい」
「本気ですか」
「そなたに偽ってどうする?
己は仕方なくこの役を演じているだけさ。
他に代わってくれる者があれば、船乗りになって西の彼方の《歓びの島》にでも出かけるよ。そのほうがきっと楽しいぞ?」
わたしは同意し損ねた。
けれど陛下はわたしの気持ちをくんだようで、小さく笑って肩をすくめた。
そうして日が翳ったかのように静謐になる面にむけて、長年、尋ねてみたかったことを口に出した。
「後悔、なさることはありませんか?」
「己がか?」
「ええ」
「そんなものするようなら、生まれてきた甲斐がないではないか」
さすがに歴代皇帝のなかでも随一と呼ばれる名君のことばだった。
わたしは肩を落として嘆息した。
「わたしはいつも後悔ばかりですよ」
「実は己もたまにする」
わたしが目を瞠ると、器用に片目をあけて笑ってみせて、
「だが、それも悪くない」
そう言ってまた、目を閉じた。
わたしは声なく笑い、そこを辞した。
ひさしぶりに真夜中の黄金宮殿をひとりで歩き、わたしはあの露台へと足をむけた。 そこに立つと、空に浮かぶ月は線のように細く、ほとんど消え入らんばかりで凍りつき、今日が朔日であると告げていた。
彼はきっと、この寒い夜を女神の神殿で過ごしていることだろう。
石の床に跪き、麗しい女神の像のまえで敬虔に目を伏せる横顔を想い、わたしの唇にうすい笑みがうかんだ。
彼が手を触れることのない、その《女神の娘》を奪ってみせる――
その想像に、痛みのような熱を感じた。
これ以上なく愚かなことを企てて、わたしは遂に声をあげて哂った。
愚かでも悪足掻きでも、敗北の予感が胸に押し寄せようとも、せずにはおれないことを、わたしは手に入れたのだ。
凍えるような闇夜に強い蜜酒を煽る興奮が全身を満たし、糸のような月の傾くのを、いつまでもそこに立ち眺めていた。
――――翌年、夏至の日に届いた花を、思いつくままに自分の居室の庭にさした。
この木が育ち、たくさんの花をつけるようになったなら、わたしはその《女神の娘》のために花冠を作ってやるつもりだ。
芳香をたたえた銀白の花は、黒髪にさぞ美しく映えることだろう。
その長い髪に指を絡め、花の移り香に酔う悦楽を想い、わたしはそっと瞼を閉じた。
あの夜、わたしが手に取らなかった花冠が、月の輪となりくるりと舞った。
終