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歓びの野は死の色すのことを語る

外伝・月の石

 それから数ヵ月後、とうとう皇后陛下が薨去された。
 陛下は表向き、いつもと変わらぬ顔で過ごしていた。いささか酒量が増えたものの、それもすぐに元に戻った。
 まだ三十代の陛下がお独りでいることを、そしてまた、これという飛び抜けた皇位継承者のいないことを、みなが案じていた。

 年が変わって少したち、わたしは陛下に新たに皇后を迎える気がないかと尋ねた。
「世継ぎの件か」
「ええ」
 陛下は書物から顔をあげ、いくらか視線をさまよわせた。
 わたしは、毛皮につつまれて長椅子に横たわる陛下より頭が高くならぬよう絨毯のうえに直に座り、この異国風の生活を好まれた東の国からきた皇后の不在をしみじみと感じていた。
「あれの産んだ子は死んでしまったからな。下らぬ争いなぞせぬよう弁えているはずだが、そなたがいれば、残された凡庸な皇子のうち誰が帝位に就いてもどうにか治まろう。治まるように治めてきたつもりだ」
 君主としての矜持に満ちたことばは、転じてわたしへの信頼の証なのか、脅しなのか、その両方であるのか判じかねた。
「外戚の扱いも面倒だ。そのあたりのことで揉めるのは時間と労力の無駄で済まず、帝国への叛逆と思っておる」
 徒に妃をおいて子を設けすぎた父祖たちへの呪詛をこめて、陛下が吐き捨てた。
 けれどもこの部屋の寒々しさはただ季節ゆえのこととは思えず、拒絶されても今一度お伝えするだけの覚悟ではいた。
 なんと口を切ろうと項垂れたわたしへむけて、陛下はいつものような掠れた笑い声をたててひとこと告げた。
「先に申しておくが、己は面食いぞ」
「陛下?」
「新しく皇后を立てて皇太子が産まれる可能性があるほうが、皇子たちも精進するに違いない。また、皇子を産んだ妃たちの外戚がかまびすしいのも鎮まるだろう。
 何よりも、まだ若いのに枯れた皇帝と思われるよりは、日の神よろしく盛んなほうが行く末頼もしいではないか」
 あけすけで享楽的なことばと裏腹に、黄金の双眸がこわいほど煌いていた。
「そなたのことだ。何ぞ当てがあって、言い出したはずだ」
 わたしは、《死の女神》の娘のことを話した。
 陛下は口をつぐんだまま瞬きひとつせず、最後まで聞いた。
「エリゼ公国には第二公子を遣せと伝えおいたが」
「心臓が弱いという話でございます」
「なるほどな。では、その姫君を呼び寄せるのも一興か」
「若ければ若いほど、よろしいでしょう。女の盛りは短いものです」
「己はそうは思わぬが、この黄金宮殿で胆力のない女は生きていけまい。若ければ、少なくとも体力はある。やり直しもきこう」
 伏せられた琥珀の瞳には、亡き皇后陛下の面影がうつっていたのだろう。
 それを憂えて息をつくと、陛下がふと顔をあげて問うた。
「その姫君に婚約者はいなかったな」
 ルネ・ド・ヴジョーの顔が思い浮かび、すぐさまそれを追いやった。
 陛下はわたしの顔色を読み、追及した。
「婚約者を押しのけて横から姫君を奪うては都合が悪い」
 彼はたしかに婚約者ではない。
 わたしはそれも調べていた。
 自分の鼓動を聞きながら、声だけは震わせずにことばを返す。
「念のため、公国大使に確かめておきます。不都合なければすぐにも話を進めますが、よろしいですか?」
 陛下はただ頷いた。
 それから何事もなかったかのように肘をついて瞼を閉じ、もう、ご自分の想いに浸ってしまわれた。
 そうしてわたしが膝を起こすと同時に、乾いた声がそこに落ちた。
「己はそなたに授けてやれるものが何もない」
「陛下?」
 膝を折ろうとすると、そのまま聞けと鋭い声が飛んだ。
「己は《この世でもっとも高貴なる奴隷》となることを自ら選び、そうして生を全うするつもりでおる。
 だがそなたはその覚悟もなく、何も選び取ることなしに否応なくここにおる」
「それは」
「聞け」
 わたしは小さく息を吐いた。
 陛下はわたしの気が落ち着くのを待って、再び続けた。
「その姫君、そなたにやろう」
「わたしは」
「聞けというに」
 軽い苛立ちに声がかすれ、陛下はいったん唇をむすぶ。そして、わたしの顔をちらと見あげ、琥珀の瞳をまっすぐに向けて口にした。
「そなたが欲しければ、その姫君に他の誰がいようとも、己が邪魔はさせぬ」
「……らしくもないお言葉に聞こえますが」
 陛下は漁色家ではないし、また他人の妻や娘を無理やり自分の寝台に担ぎこむような愚かしい真似はしなかった。
 それは君主たるものが他者のものを奪うことで要らぬ恨みを買うことを避けるためであり、世の半分である女たちを蔑ろにすることへの懼れでもあった。
 不思議なことに、この世で恐ろしいものは何もないように見えるこの方が、心底こわがっていたのは「女」であった。
「らしくもなくなるだろう。今まで我侭ひとつ口にしない弟が、初めて己を頼りにしたのだ」
 陛下が身体を起こしてこちらを見た。
「己はそなたが今まで何も執着しないできたことを知っている。いや、欲しがっても手に入らぬと諦めて黙して過ごしてきたことを、己は見ないふりできた。
 欲しいものは奪え。
 己はそうして生きてきた」
「わたしは陛下と違います」
「違わぬよ」
「いえ」
「違わぬさ。そなたは己の弟だ」
 そういって横を向いた男――わたしの「兄」を、見おろした。