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歓びの野は死の色すのことを語る

外伝・月の石

 夏至の日、太陽神の装束に身をかためた陛下は、美々しいお付きを従えてことのほか楽しそうに一日を過ごされた。
 そのなかに、ルネの姿はなかった。

 その日の宵、差出人の名前もなく銀香梅の花輪が届けられたことで、わたしはひとり、声なく笑った。彼は、わたしを姫君だとでも勘違いしていたのかもしれない。
 銀香梅――月の神が愛で、花嫁を飾る冠となる、幸福の花。
 信奉する神の愛でる花ゆえに、わたしはそれをただ捨てるにはしのびなく、葉を千切って寝台に落とし、両手を広げてそのうえに横になった。
 彼はきっと、帝都にいる限りにおいては、朔日には《死の女神》の神殿に詣でることだろう。
 わたしがそこを訪うことがなくとも、約束を律儀に守り、あの澄んだ青い目をそっと伏せてわたしのことを祈るだろう。
 恨みもせず、憎みもせず、こころ平らかにそこを後にするに違いない。
 あの穏やかな横顔を眼の裏に浮かべると、芳しい甘い香りにつつまれながら喉に押し込めた声が凝り、その熱が雫となって絖絹に染みをつくった。
 何故そんなことで泣かなければならないのか、泣いているのか、自身に問うことも厭いていた。
 涕は確かにそこにあり、ただそれを想うことだけが凡てだった。

 それから数日後、陛下はわたしを自室に呼び出された。
 片足を抱いて肘をつき頬に手をあてるその仕種は、おそらくわたしと皇后陛下くらいしか知らないであろう、上機嫌の証だった。
「ヴジョー伯爵を知っているな?」
「……はい」
「若いのに、なかなか大した男だ。夏至の日の役目を断った上に、近衛騎士に取り立てるというのまで断ってきた。
 呼び出して問い質すと、学問をしないとならんと言い出すのでならば両方しろと命じたら、領民の血税で勉学しているので早く領地に帰りたいと、任期は一年でいいかとあちらから条件を出してくる。
 清々とした顔で少しも悪びれぬのでこちらが折れた。ひさびさの完敗だ」
 ここしばらく見ないくらい、陛下のお顔は晴れやかだった。面白がっているのは間違いない。
 皇后陛下が病に臥せられて以来、私室にいてこのようなご様子なのは珍しかった。
「近頃、学士院には通っておらんのか?」
 御下問は耳に痛かった。
 わたしは端座したまま、頭をさげて謝罪した。
「すでに習得済みの教科ばかりだ。厭いているのだろうな。だが、学問のために通えといったわけではない」
「存じております」
「まあ、ヴジョー伯爵のような男と旧知の仲だそうだから善しとする。だが、無茶はするなよ」
「彼が何か」
「あの男は余計なことは何も言わぬ。それはそなたもわかっておろう」
 わかっていた。
 それは、充分によく理解していた。
「そなたに付けてある護衛が報告してきた。羽目を外すのが悪いとはいわぬが、去年、街中で傭兵相手に立ち回ったような危険な真似は二度とするな。その身分を知っての相手ならどうとする?」
「申し訳ありません」
「わかればよい。そなたには窮屈な想いをさせている。だが、そなたも己も、ここ以外の場所で暮らせるようにはできていない。
 いま一度、あの屋敷に戻りたくはなかろう?」
 わたしの育った屋敷。
 大陸一の銀行家のきらびやかな邸宅。
 わたしはそこで、冷笑に取り巻かれながら、誰が父親なのかさえ知らずに育った。
 妻となった女に金で買った奴隷と素性をばらされて以来、その権高な気性を嫌ったわたしは逃げ回った。むろん、逃げたといってもその屋敷のなかだけのことだ。わたしは枷のはめられていない奴隷と同じだった。
 そうして誰からも敬して遠ざけられ、一日ひとことも口を利かずにいたようなわたしを、ことあるごとに皇帝命令として連れ出して話しかけくれたこの方には感謝している。
 わたしの顔から血の気がひいていたのだろう。陛下はあわてたようすで付け加えた。
「連れ戻させるようなことはさせぬ。安心せよ。だが、あの一族は己の手にあまるほど厄介なのだ。隙は見せるな」
 わたしは黙したまま一礼した。
 それはまた、陛下がわたしにあの卑しい銀行家の一族を制圧せよという命令であると肝に銘じながら。
 わたしが平民であるのはそのためだ。
 皇帝陛下はわたしに爵位を授けるつもりはない。みなの前で、わたしを弟だと喧伝されることは決してない。
 わたしをどれほど重く用いようと、また肉親としての情愛を深めようと、わたしが金で購われた奴隷であることは変わりなく、またその財力がある限り、わたしは皇族の名乗りをあげて陛下の隣に立つことは許されなかった。
 皮肉なことに、それが当然の運命だとでもいうように、わたしもまた「彼」によって、自分の本当の気持ちを知らされたのだ。
 わたしは、陛下のそば近くにいることが許される、円卓の騎士に名を連ねたルネ・ド・ヴジョー伯爵のような男になりたかったのだ……