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歓びの野は死の色すのことを語る

外伝・月の石

「女神の娘とは?」
「エリゼ公爵家に生まれることのある、女神と同じお姿の寵児のことをさします」
 彼は滔々と淀みなくその娘について語った。
 今は公爵家の城でなく、古神殿という場所で大教母によって教育されていること。
 その姿を見ることは滅多にできないこと。幼いながらたいそう聡明で、また女神そのひとのように美しくなるに違いないと言われていることなどを。
 わたしは、エリゼ公爵家がたしかに美貌の一族であると知っていた。
 一度、その「大教母」とやらには会ったことがあるのだ。
 背が高く黒衣の似合う、ぞっとするほど美しい女だった。あの頃はまだ健康であった皇后陛下と並んで、まるで見劣りしない女性として強く印象に残っていた。
「わたしには、そなたがその娘に恋でもしているように聞こえるが」
「まさか、お会いしたこともない方です」
 彼は慌ててこたえた。
「帰国すれば、会うことも適おう。そなたの身分なら、娶ることも不都合はないはずだ」
 わたしのことばに、彼は今さらながら驚いたようだ。
 それから、ほんとうに思いつきもしなかったという顔で首をふった。
「私などが……」
「たしかに、公爵の姫であれば自国の貴族と結婚するより、他の国の王族や国主が是非にと乞うて嫁ぐ場合のほうが多かろうがな」
「まだ、あの方は七歳か八歳で」
「貴族ならば生まれた瞬間に結婚相手が決まっていても不思議ではない。わたしがそのよい例だ。むろん、わたしはそなたと違って平民であるが」
 横目で見ると、彼は恐縮してうつむいた。
 その様は取り澄ました様子もなく、少年らしい気遣いに溢れていた。宮廷人としては失格だが、わたしはその素直さや一途な気質をいとおしんだ。少なくとも、この宮殿にはひとりとしていない性質の人間だった。
 わたしは軽く息をはいて、気持ちをいれかえた。
 宮廷で、こころを割って話せる相手をひとりでも見つけることができたことを幸運と思わずに、何をそう思えというのだろう。
 わたしは彼の腰に穿いた剣が飾りではないことに目を留めて、円卓の騎士の武勇を思い起こして声をかけた。
「朝まで付き合え。ひさしぶりに城外へ出たい」
 予想通り、彼は腕に覚えがあるらしく、供を連れて行けだの何だのと煩いことをいわずに付き従った。
 わたしたちはその夜、帝都の同い年の少年たちと同じに、祭りを楽しんだ。
 太陽神を真似て月桂樹の冠をかぶり、居酒屋をわたり歩いて酒を飲み、秋波を送ってよこす女たちを冷やかしながら誘いを拒み、売られた喧嘩はすぐさま買って、しかも負け知らずで帰ってきた。
 彼は怪しげな異国料理にも手を出す健啖家のくせに葡萄酒の良し悪しにだけは煩いことをいってわたしを閉口させたが、同じようにわたしが女の好みを並べ立てるのには口を噤んで苦笑した。
 夜も更けて、わたしが《死の女神》の神殿に詣でようと持ちかけると、彼は頑なに首をふった。何故だと問いつめると、こんな酒臭く汗に塗れてぼろぼろの格好では申し訳ないとこたえた。まるで恋人に会いに行くようではないかと揶揄すると、彼は瞬時に頬を染め、反論しようとして結局はうつむいた。どうやら、何も言い返すことばが浮かばなかったらしい。
 そうして明け方には月神の神殿にしのびこもうと目論んだ。
 彼は生垣に咲く、闇夜を照らす雪のような銀香梅に声をあげ、また門にかけてあるその花輪をひょいとつかんでわたしを見た。
「貴方様にはこちらのほうがお似合いではありませんか?」
 真顔でいうので吹き出した。
 彼は不思議そうに首をかしげ、わたしの顔を見た。やはり彼が異国人であると、わたしは知った。
「そなたの国にはない花か?」
「少なくとも、私の領地では見たことがありません」
「暑い国のものだからな。それは、花嫁の頭にのせる祝福の冠だ。誰かが結婚式のあとに奉納したものだろう」
 彼は頬を染めて平身低頭謝罪した。
 わたしが片手をふってそれをいなすと、ゆっくりと花輪を持ち上げて、至極名残り惜しそうにそれを戻した。
 さすがに、被ってやると申し出る気はなかった。
 だが、門をひらりと乗り越えた彼が、後ろ髪をひかれるようすでそれを振り返るのは、妙に面白く感じてのどが震えた。
 いつまでも笑い続けるわたしを見て、彼はまた首をかしげた。
 わたしは彼が傾けた頭のうえの月桂冠に手をのばし、腕をふって高々と放り投げた。

 丸い輪が闇夜に弧を描いて回転した。
 そうしてふたつの輪が門にぴたりと重なるのを、彼は手を打ち鳴らして歓声をあげた。
 それから煽った蜜酒には、ふたりして昏倒させられた。きつい酒に目を回したその顔に、腹の底から笑いがおきた。
 わたしは、かつて記憶にないほどの心地よい気分になっていた。

 だから、次の年の約束をしなければよかったのだ。
 そうすれば、わたしは彼を憎まないでいられた。