外伝・月の石
3
川向こうにあるのは、《死の女神》の神殿だった。
四角い石を重ねた古めかしい建物はその小ささによらず、目をひいた。女神の神殿らしく、どことなく瀟洒な趣がある。ことに白亜の回廊の美しさは格別なもので、信者ではないものにも開放していると聞いたことがある。
わたしは彼が《死の女神》を守護神とするエリゼ公国から来ていたことを思い出し、遠慮なく口にした。
「故郷が懐かしいのか?」
その問いには頬に血をのぼらせた。落ち着いたところがあると見ていたが、そこはやはり十五、六歳の少年らしさがのぞいた。
わたしの微苦笑に、彼は言い訳のようなことばを吐いた。
「故郷ではなくて」
「太陽神の僕だというのに、《死の女神》が恋しいと」
「……そう、なのでしょうね」
すっかり諦めたらしく、彼はうつむいて、頬にかかった巻き毛を耳にかきやった。
「自分で知らなかったのか?」
「いえ、その……お恥ずかしながら、まさかこれほどとは思っていなかったと申しましょうか」
照れくさそうに笑う顔は好もしかった。
わたしはそれを見て思わず、滅多にひとに聞かせることのない、《死の女神》と月神の交わりの話をした。
神々が西の彼方にあるという《歓びの島》にいたころ、女神は《歓びの女神》であって、死の女神ではなかったという伝説だ。
月の神と交わった女神は人の子を産んだ。
それは不死の島たる《歓びの島》に相応しくない存在で、女神はそれ以降、《死の女神》となったのだ。
彼は初めてその伝説を聞いたらしく、熱心にわたしの話に耳を傾けてくれた。
そして自分の不勉強を羞じ、そのことの記してある写本について、または教義について詳しく尋ねてきた。
すこし話をしただけで、彼が田舎住まいにしては相当深く学んでいることは理解できた。教義の話では、わたしでさえも初めて聞く珍しい説が飛び出し、わたしは正直、舌をまいた。
わたしは彼の熱意に感服し、月の神官からその本を借り受けてもいいと請け合った。
彼は畏まって感謝をあらわにし、やはり帝都にきてよかったと微笑んだ。
実のところ、《死の女神》に対する憧憬のようなものはわたしにもあった。けれどそれはこの帝都、または黄金宮殿ではそう易々と口に出せるものではなかったのだ。
太陽神と同じく天空神である月神へのそれは、兄である太陽神を支える弟として、わたしの役目に相応しく、その想いを語ることも許された。
しかしながら、死の女神、闇の女神、眠りの女神であるものは、不吉で忌まわしいという想いを抱かせたのだ。
そうしたわたしの述懐を彼は平静とした面持ちで聞き、そのうえで、女神の偉大さを真摯に語って聞かせてくれた。
わたしにはその有様が太陽神の信徒というより、女神の信徒と呼んだほうが相応しいと思えた。
「わたしも皇族に生まれながら月神を奉じている。今からでも宗旨替えして故郷に帰ればよかろう」
「そういうわけには参りません」
あまりに強い反撥に、彼は自身が不敬なことを口にしたと色をなくし謝罪しようとしたが、わたしはそれを目で制した。
彼はそれを受け止めて口をつぐみ、わたしのことばを素直に待った。
「悪かった。そなたの事情も知らず勝手をいった。許せ」
「いえ、そのような」
「いや、今のはわたしが悪かった。
《死の女神》を奉じる彼の国からはるばる帝都まで来て太陽神の神官になろうとするのだ。並々ならぬ決意があろう。
それに、ひとには己の自由にならぬことがある」
そう告げたのは、はたして彼にだったのか、己自身に対してだったのか、今となってはわからない。
ただ、彼は悲しげに瞳を伏せて首肯した。
それもまた、彼自身の運命を思ってのことか、わたしのそれを思ってのことか、それも同じようにわからなかった。
「そなた、婚約者はいないのか?」
わたしの唐突な質問に、彼は今度ばかりは大人びた顔をみせた。
「候補は両手ほどもいるようですが、未だ決めてはおりません」
「帝国貴族の娘か?」
彼の母親がこの帝都でも十本の指に入る名門の生まれだとは調べてあった。であれば、神官職を得たと同時に故郷に妻を連れて帰るということもある。
「殆んどはそうだと聞いております」
「自分の妻となる女にまったく興味がなさそうだな」
「そういうわけではないのですが……」
困惑したように眉がさがった。それから、いえ、やはり興味がないのでしょうねと認めた。
彼の「伯爵」という身分はこの上もなく尊い地位であった。何故なら、歴代の皇帝がことあるごとに侯爵や公爵の地位を授けようとすると、偉大なる皇帝ユスタスへの敬意を表してそれを固辞してきたからだ。
そこには因襲めかした貴族らしさもあったが、闇雲に富貴を求めない古き良き時代の騎士階級の実直さも垣間見えた。それは、目の前にした少年の立ち居振る舞いにもよくあらわれているようだった。
「そなたの国の領主の娘に頃合のがいたと思うが」
「エリス姫は《女神の娘》です。私などがおいそれと近寄れるような方ではございません」
きりりとした反論に、興がのった。
わたしはそのときまで、女神の娘というのがどんなものかよく知らなかった。
帝都では《死の女神》は穢れを扱うものとして、どちらかといえば忌避されていたせいだ。