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展覧会のことを語る

ウフィツィ美術館展―黄金のルネサンス ボッティチェリからブロンヅィーノまで―
ttp://www.uffizi2014.com/

いってきた!
昨日はわたしの最愛の小説家のひとりラファティ誕生祭で今日はわたしの最愛のひとサンドロの展覧会と、妙な感じでリア充っぽいですw
34年前に上野の西洋美術館でひらかれたルネサンス美術展が今に至るまでわたしというひとを形づくったと言って過言ではない状態なので、ということをしみじみひとりで噛みしめながら観て来たよん☆

ていうか、34年前って秘仏っぽいwww(だいたい33年だよねw)

イタリアで二度観てるので、そういう意味では今回で四度目なのですが、
そして、ペアチケット二組買ってあって四枚全部ひとりで使う予定なんですけどw

今日ズドンと腑に落ちたことがあって、というか、いえ、知らなかったとかじゃないわけですが、そうだよなーってしみじみ思ったのは、
『パラスとケンタウロス』のパラスはratio(理性)だった、ということです。
それをあんなふうにSMチックで官能の塊であるように描いちゃうサンドロというひとはまったくほんとにイケてるぜ、と。
(人物の同定には諸説あるし、わたしは必ずしもあれもパラスアテネにのみ帰するつもりはないのですがでも、受ける印象というのはどうしたってケンタウロスという野獣を制するクールで知的な美女なことには変わりないといわれたら異論はないのだ)

ほんとに何度も書いてるんだけどでも、やはし何度も言っておいていいだろうと。↓ これ、ね。
http://florentine.hatenablog.com/entry/20101225/1293273517

あとその官能性について、こんかい小一時間絵の前に立って、彼が何の線を、構図を「快美」として他をどう無視したのか、ということを捕えようとしてきた。サンドロの歪さというのはどこからきているのか、といってあれをなんでもまっすぐ立たせると美しくもなんともないので(マジでどーしよーもなく色気のない、つまり魅力のない絵になるよ)、手癖ではないのだ、と。どこかしらズレた感覚というのをもったひとではあるけれど、計算という名のしたたかな戦略であると、いや、それら双方の分かちがたいところで成立する何かなのだと、つまりそれを才能とか天分とかいうのかもしれない、と感じながら帰ってきた。

他にもいろいろ書きたいことはあるけど、今日はここまで。
あ、これだけは叫んでおく、
ギル様(ギルランダイオ)の端正さにうっとりした!