『∀の癒し』もよんだ。
「もうすこし、ひとを信じなさいよ」と「今まで、いいひとに出会わなかったんでしょう?」という言葉に殴られた、ていう御大の体験にわたしも殴られた!
これは、これは、あー、
こればかりはそのひとの「運」もあるしねええええ、
相手からの厚意や愛情や何かを受けとり損ねる、てこともあるしねええ、
なんとも、なんともだなあああ、と。
あと、こちらが本当に一生懸命渡そうとしても、受け取らない・受け取れないひともいるからね(ひとに構うことをまったくもってしないし出来ないわたしでも、ごくごくたまには意識して渡す側にまわることもあるのだよ)、
渡し方が下手なのもあるかもだけど、
タイミングもあるし、むずかしいよねええええ、て。
とはいえ、後から受けとれることもある、からねえ。
まあだから、言われたことは忘れないようには気をつけてるけど、なかなかねえ。
あと、
渡してるつもりはまったくなくても渡したと思われることもあるし、
勝手にコッチで奪いとることもあるし、
お互いに認識が一致して授けるともらうが同時に遂行されることは人生そうない、とおもってる、ていう認識がすでに、わたしというひとをそれこそ勝手に物語ってそうだなwww
(みんな、ちゃんとこういうの出来るんでしょ??)
小説がありがたいのは、その「一致」「合致」を期待というひとことですらっと未来へ託すことが可能だから、だよなあ。それを気にする、または気に病む必要なくおおらかでいられるから、「書かれたもの」というのが好きだったりする。
いったん自意識やら愛情やらといった欲望に絡むあれこれを棚上げできる、というのはわたしみたいな人間にとってたいそう精神衛生にイイんだろうねえ。