ところで、愛とはそういうものなのだ。それは秘密の生、隔てられ聖別された生、社会から遠ざけられた生。家族や社会から隔てられた生でもある。というのも、家族や社会、日の光や言語以前の生を愛が呼び戻すからだ。声もなく、誕生すら知らない、暗がりのなかでの胎児の生を。
いつの時代においても、また誰と一緒にいても、事のはじまりからしてすでにあらゆる私の経験に害を及ぼしていた孤独という疎外を、私が乗り越え得たことはなかった。疎外はそうした体験をある秘密の場所へと運び、孤独はそこで沈澱した。
女たちの眼も、男たちの眼も、彼らがこの世の誰にも明かすことのない摸糊とした至福を味わった日の数時間によって、いまだに包囲されている。
私はいまだ夜の回廊のなかを歩き続けている。
待ち伏せは闇に結びつく。そして、浮動する未知の無限がいにしえの夜に付け加える。その暗闇を背景として、闇夜を進む天体の道がかつてじっと観察されたのだ。暗がりでなされる思考の密度は、戸惑いのなかで生じる興奮の密度に近い。
沈黙すること、愛すること、書くこと、それは別離を告げるあらゆるものの只中で得られる不断の勝利である。
絶えざる驚きや変化し続ける夢といった至高の場所に、人は身を落ち着けることができる。だが、私にとってそうした場所とは、たったひとりで過ごした片隅、言葉が沈黙に完全に身を委ねることのできた一隅であった。
結局はそれを永久に失うことになるとしても、私は自分の愛したものを永遠に愛し続けるだろう。
喜びにもかかわらず、というよりむしろ喜びが原因で不穏な空気が流れた。なぜなら、打ち明け話によって喜びをふたたび味わうことも、睦言によってそれを認識することもできなくなっていたからである。そして相手の体に対して、認知よりも沈黙を少しずつ要求するようになった。そこに安らぎはなかった。
沈黙することによって、思考の背後に立て籠もることもなく、他者の領分に足を踏み入れることもない。沈黙のなかで人は他者に対峙する他者となり、そうすることで互いに親密さを獲得する。この状態は、親密な異他性のそれである。真の抱擁において、身体が語るきわめて寡黙な外国語を人は見いだす。
沈黙は聞くことを可能とし、他者の魂を占拠することなくして空っぽの空間をそこに残す。沈黙だけが、他者を凝視することを可能にする。
パスカル・キニャールぼっとさんより
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ここらへんは『秘められた生』から。下から読んだほうがあってるかもだけど、まあ、そのための断章形式なのでご自由に。
この世にそう滅多にない、ほんとうに美しい本です。
ところで、うささんが、なにやらまとめにはいっているようで、お疲れさまです!
わたしがいちばん愉しみに読んでたんじゃないかと今でもおもうわw
わたしはまだ、ふたりがひっつきあっているシーンばかり書いています、これエロいかなあエロいかなあ無茶苦茶エロくならないかなあと首を傾げながらw