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展覧会のことを語る

バルテュス展
http://balthus2014.jp/

ようやくいってきた! 
画家作家は長生きしてなんぼ、という見本のようなひとだった。生まれた時代とか場所とかひととの出逢いによって「芸術家」たりうる、みたいな(バルテュスはこの文言がきらいだったようだけど、あの作品群を目にすると、心情的に理解できるようにおもえる。というか、ルネサンス期の画家にとりつかれたひとは、じぶんをそう名指すのになんらかの躊躇いをもつものだとおもうしね)。
11才のときの絵本、リルケが序文をつけたとかいうのは別にして、その後ずーっと見てるのがチョットつらいような鬱屈した様相の絵が多くて、少女と猫の例の絵とか、あーなんか、こまったなー、て感じで、挑発的だからとかそういうんじゃなくて、なんか、ひじょーに苦しそうでいたたまれないふうに思えた。ナルシズム満載の自画像や自分(と恋人)を描きこんだ嵐が丘連作のほうがずっといいな、と。
ただし、造型、構成というのにはある一定の緊張感みたいなのはある。いわゆるピエロ・デッラ・フランチェスカ等への憧憬というのはたしかに感じるのだが(でも、模写はいけてなかった、模写て凄く残酷なんだよ、ていつもおもうのだ)、これをもっと素直に、楽しげに、ほんともー夢中でガムシャラにやってしまった先達の存在というのを無視できるわけもないはずで。
画面を斜めに横断する線の印象というのはしかし、ルネサンス期の特徴ではなくバロックのそれで(カラヴァッジョからの借用はあった)、けれどそれを背面と手前に矩形をおいて閉じようとする気配もある。それが、わたしからすると息苦しさをおぼえさせる要因なのかもしれないのだけど。
ポップアート全盛のときにもずっとあの作風で、節子夫人と出会ってからきゅうに線がいきいきしてきて、見ててたいそう気持ちよくなるので、画家の「ミューズ(美神)」てほんとにいるんだなあ、という非常に素朴な感慨なんだけど、でも、そういう展覧会「構成」をした夫人の勝利、かなあ、とか、ね。
あ、猫の顔は邪悪で素敵でしたw