id:florentine
花うさぎ無計画発電所のことを語る

 アパートの少し前で自転車をおり、あしおとを忍ばせて歩いた。あなたは耳がいい。そして眠りが浅い。
 無言で玄関をあけてあなたが起きだす気配がないのをたしかめた。おれはしまっておいたマフラーを包みから出して、ハンガーにかけられたあなたのコートにふわりとまとわせた。そこで気がついた。ポケットに小さな箱があるのを。
 おれはそれを手に取った。開けずにはいられなかった。
 黒蝶真珠のカフスだった。
 香音を爪弾くあなたの手、その手首を飾るアクセサリーをじっと見つめた。ごく素直に、あなたに似合うと感じた。と同時に、幾らするのだろうと考えた。そもそもおれは買えない。あなたも到底手に届く値段ではない。
 苦笑がもれた。
 おれはあなたが依頼人から贈られた黒いカシミアのマフラーをハンガーから引き剥がし、それを隠した。
 幼稚な嫉妬をあなたがどう受け止めるかわからない。でもおれには必要なことだった。
 部屋に入るとあなたがうっすらと目をあけて問うた。
「大学は」
「教授の都合で休講になった」
 あなたはそれを聞いて目をとじた。とても眠そうだった。
「何時に出る?」
 おれはベッドに腰掛けて尋ねた。
「今日は遅い。夕食をとってからでいいと言ってもらった……」
 昼までずれこんだための配慮だろう。あなたの初めての「華客(かかく)」は贈り物のセンスといい、こうした気遣いといい、文句のつけようがなかった。夢使いが華客と呼ぶのはたんなる得意ではない。三夜連続のあがないをして、その身を委ねる相手をいう。むろん交渉が決裂することはある。むかしばなしには贈り物が不服だとしてどんどん値をつりあげ、ついには時の帝を華客としたのにそれさえ断って海をわたった剛の者の逸話もある。
 あなたは今、考え得るかぎり最高の上客を拒絶しようとしている。それが今後あなたのあがないにどういう結果を及ぼすのか、教授でさえわからないと口にした。教授曰く、たいていの夢使いは「華客」などという贅沢な依頼人を滅多に持てなくなった時代ですから、とのことだった。
 おれの知るかぎり、例の華客にはあなたと同い年の息子はいるが妻はいない。その華客はどういう条件を出してあなたを口説いているのだろう。共に暮らしてくれと乞うているのか、他に住まいを用意すると告げているのか。それらにあなたがなんとこたえているのか。
 揉めたのだということは、わかる。込み入ったはなしになったというのはそういう意味だろう。性交渉そのものを拒絶したあなたに、華客はもっと高価な支払いを申し出る。華客にはあなたの言い分は通じない。自分に何が不足しているのか、条件のどこが不服なのか問う。あなたは首をふる。色は売らないと言い張るあなたに、華客はおれという「男」と暮らしている事実を口にする。あなたはまたもや首をふる。そういうことではないのだと誠意をこめて説明をする。だが相手はそれに納得しない――おそらく、そんなところか。
 おれだとて、あなたの「客」なら引き下がらない。するはずもない。いや、頭ではあなたの言い分を理解できる。だから、あなたに嫌われないために受け入れたふりをするだろう。そうすればあなたをあがないの時間だけは独占できる。とはいえ、あなたの予定を埋めるには金が要る。 
 おれは、あなたにいったい何を与えられるのだろう。
 いまたしかに、あなたはおれといっしょにいたいと望んでくれている。おれはただ、それに甘えているだけだ。いや、それよりなにより「与えたい」というこの傲慢をこそ、あなたが嫌うかもしれない。それなのにおれは、あなたから何もかもを奪い尽くしたいと願うのと同時に、真実そう強く希っている。
 あなたは、ひとり苦笑したおれの顔を見た。そして、なんでもないと首をふったおれへ向けて、ありがとう、と口にした。おれは一瞬、なにに礼を言われているのかわからなかった。もちろんすぐに、今朝あなたを待たずに大学に行ったことだと察した。あなたはそういうおれの表情を見ていなかった。まぶたをとじたまま唇だけひらいた。
「優秀だと金時計がもらえるって話しじゃないか」
「主席だとね」
「主席じゃないのか?」
 意外そうに目をみひらかれた。おれは、何と答えようか迷った。成績表に優ばかりが並んでいるのは間違いないが主席となると少し話しが違う。あなたが言った。
「主席だと答辞をよむんだろ」
 それを聞いて、おれは声にならない声を胸のうちで漏らした。あなたは大学に行かなかっただけでなく、高校の卒業式にも出ていないのだ。おそらくは、あなたが答辞を読むはずだったのだろうに、出席しなかった。
「おれの晴れ姿、見たいの?」
 あなたの頭の横に腕をついて耳の横で囁くと、あなたがくすぐったさそうに笑った。おれはあなたに覆いかぶさり、さらに耳に唇を寄せてつづけた。
「休みとって、父兄席に座ったりする?」
 もちろん、とあなたが微笑んだ。わかった、とおれはこたえた。わかった。おれにはあなたの望みを叶える力がある。ただそれだけのことでこんなにも満ち足りる。
 おれは時計を見た。あなたのまぶたは閉じられままだ。おれがバイトに出るとき外でいっしょに夕飯をとるという選択肢もないではなかった。たぶんあなたはそう考えている。おれはそれもわかっていた。
 それでも。
 あなたの身体を組み敷いてしまった今、おれはおれだけがあなたに与え得るただひとつのものを、あなたにさしだしたくてたまらなくなっていた。