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けっきょく熊本で暮らすことにした。
歌仙の言葉に長谷部は目を丸くした。呼び出されたのは、大学のキャンパスだった。彼らはそこのベンチに腰かけて、互いを見ずに会話した。
東京は僕にはいささか慌ただしくてね、あちらには立派なお城はあるし水も綺麗で食べ物も美味しいし、熊本に帰るよ。色々と面倒をかけたね。
広光は、と掠れ声でたずねた。
燭台切さんのところにしばらくいるらしいよ。アルバイト先が見つかったら部屋を探すって言ってたけれど、ああ、大学は卒業しろと言っておいた。潰しがきくし、僕たちも通ったところだしね。
大学のはなしが出て、長谷部は息をついだ。
歌仙も、しばらく通りのほうを眺めていた。
君と会ったのは四月だったね。転がり込んだのは五月だったかな。
ああ、そうだ。忘れてくれと書き残してお前が出ていったのは七月だ。
僕はほんとうに酷いことをしたね、と苦笑する歌仙の横顔はあのころより憂いを帯びて、うつくしかった。
悔しくて、酷く情けなくてね。君が僕を少しも好いてくれていないようにおもえて。
どうでもいい相手を部屋におくか。
そうだね、そうだよね、でも僕は知らなかったんだよ、君が僕にどれだけのことをしてくれていたのか、何もしないで僕のはなしを聞いてそばにいてくれるのがどんなに貴重なことなのか、僕をどれほど大事にしてくれたのか、僕にはわからなかったんだ……
その無垢と傲慢を、あのころの長谷部はいっとう愛していた。
きっとこの今も、けれど――
歌仙が俯いたまま口にした。
結婚式には呼んでくれ。
お前が有名作家になったら考えてやろう。
そう傲然と言いきると歌仙が気色ばむ。その顔をみて、長谷部は声をあげてわらった。
冗談だ。
……君ね、僕がどんな気持ちで言ったのか少しは汲んでくれたまえよ。
そうだな。俺も大事な甥っ子をかどわかされそうになった身だ。
それは情けないことに、僕が攫っていかれたような気がするよ。
やれやれとため息をついた歌仙へと、長谷部が言った。
お前、そういえば「売るなり焼くなり」なぞと書いておいてよく小説家になれたな。
僕、そんなこと書いたかい?
お前の望みどおり焼いてやったから証拠はない。
本当にそうなら酷いねと歌仙が肩を揺らしてわらっていた。ああ本当にと長谷部も相槌をうった。
僕たちはあのころにこうやって、ただの友人のように話せたらよかったのかもしれないね。
笑い納めた歌仙のつぶやきに、長谷部は首をふった。
俺には無理だ。
長谷部。
お前に友人のような顔をされたら俺はお前を部屋にあげたりしなかった。お前だって、そうだろう。とりまきはいなくなったと漏らしたが、お前には他に居場所がなかったわけじゃない。
長谷部。
そいつらは際限なくお前を甘やかすだろう。でなければお前を世間から守り抜いたにちがいない。俺はそのどちらも出来なかった。お前はそれをわかっていて俺の隣りで眠り、そいつらの手をとらずにすむようになると出ていった。
長谷部、長谷部、僕は……。
俺はお前の友人にはなれない。昔も今も、このさきも――だからお前は式に呼ばない。
歌仙は左手で顔を覆ってふるえていた。息が狭まる音を聞き、長谷部はおもわず目を反らす。
俺はお前を泣かせてやれなかった。
……僕は、君にだけは軽蔑されたくなかった。君の前で、打ちひしがれた弱い人間でいたくなかった。
ああ、知っている。
君が、僕を、見ていたから――……
見守ることしかできなかった。触れてしまえば縋りつくようにして腕のなかに抱えこみ、そのままどこまでも墜ちていくのがわかっていた。互いに溺れないでいることなど不可能だった。
だから今も、向かい合って座らなかった。
歌仙兼定の息遣いの落ち着くのを長谷部は待った。
あの年は珍しく冷夏だったが今年は例年に比べても頗る暑い。
空は青く澄んでいる。
歌仙。
なんだい長谷部。
こちらを向いた相手をじっと見る。いくらか目尻が赤いがもう泣いたようなあとはない。長谷部は身体ごと向き直る。
広光を、よろしく頼む。
しっかりと目を合わせ、それから深く頭をさげた。
いや、だから、そういうのはやめてくれ。
あいつには俺の他に碌な親族がいないんだ。これくらい当たり前だ。
そうじゃなくて。
何だ。
僕がよろしくされている。
歌仙が、かおを赤くしてそっぽを向いていた。
長谷部はそれを見て吹き出した。
歌仙もわらった。あのころのように楽しげな笑みだった。
今ようやく君をちゃんと見たような気がするよ。
ああ、そうだな。
歌仙は眩しいものを見るようにひとみを細めた。長谷部はその澄んだひとみに自分がうつっているのを眺めた。
歌仙がふわりと微笑んだ。それから、
いまさらこんなことを言うのも妙だけど、僕は本当は君のはなしを聴きたくて上京したんだよ。
歌仙?
じつは賞をとってからしばらく書けなくてね。プレッシャーかとおもってたけど違った。すこし、わけがわからなくなってしまってただけだ。もう大丈夫。僕はあの日からずっと、同じことばかりしていて、でもそれで間違ってないっておもえた。
歌仙。
世の中のたいていの素晴らしい小説は監獄のなかで書かれたか、さもなければ誰かひとりだけのために書かれたものだ。僕は君に逢えて本当によかった。どうもありがとう。
長谷部が口をひらきかけたその瞬間、歌仙は首を横にふった。君からはもうこれ以上もらえない。
そう、ほとんど聞こえないような声で囁いた。
そして、そう遠くないうちにまた会おう、と言った。ああ、さすがに十年先でなく、と長谷部も肯いた。
それじゃ、と歌仙が腰をあげて背を向けた。長谷部は一拍遅れて立ち上がる。
あの日とは違い、風はおだやかだった。
ただし、後ろ姿の麗人を手招いたのは彼の甥――大倶利伽羅広光で、彼らは並んで歩いていた。
長谷部は晴れやかな空を仰ぎ見る。
視線を戻したときにはもう、ふたりの姿は見えなかった。
ため息になりかけた呼吸を端末の振動がさえぎった。そこに示された名は朗らかにわらう婚約者のそれだった。
了