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「怪我をしてるじゃないか……」
歌仙が手を差し伸べると広光はそれを振り払った。お前、誰だと鋭く問う。先客がいるなら俺はいいと立ちあがった広光を引きとめたのは歌仙だ。君はここいいるといい、僕がホテルへ戻ればいいだけだ。ともかく中に入れと長谷部がうながした。先ほどまでの気分は霧散していた。
大したことはないと言い張る広光の手当をし、風呂へ押し込み、それからすぐに歌仙につかまった。大倶利伽羅は甥にあたる、つまり長谷部の年の離れた姉のこどもだった。姉は夫の暴力に耐えかねて家を出てそれっきりであることも告げることになった。
話すつもりなど毛頭なかった。長谷部は政治家の秘書だ。矢継ぎ早の質問を誤魔化して交わす術くらい持っていた。けれど、歌仙の真摯なひとみを見てしまっては駄目だった。
眉を寄せたまま歌仙は黙ってはなしを聞いた。あのころ、長谷部がよくしていたように。
僕もやっぱり長男で跡取り息子だったから両親に厳しく育てられたけれど、殴られたことはなかった。
ここに来てからずっと歌仙は広光のはなししか聞こうとしない。
イヤな予感がした。
大学に入ったばかりの甥に嫉妬する己があわれでもあった。
翌朝、部屋から出てこない広光はもちろん、ぼんやりしている歌仙を残して長谷部はやむなく出勤した。
夕方、黒田から声がかかる。
きみは交際している女性はいなかったな? はい。娘が、大学まで行かせてやったのに就職活動がめんどうくさいと言い出してな。は、い……。きみの名前を口にした。私の、ですか。ああ、きみはわたしのものだからおいそれとやれないとこたえたら、きみのところに押しかけるとまで言うからゆるしてやることにした。
長谷部は喉元まで出かかった言葉をのみこんだ。
「わたしには息子がいない。悪い話ではないと思う。返事はいますぐでなくていい」
肩におかれた手は大きく、温かかった。
長谷部はひとりになってうなだれた。今になって、このタイミングで――……。
そのころ歌仙はうるさがる広光を好きな食べ物はあるかだの大学では何を勉強してるだのと構いたおして、その口に料理を放りこんでいるところだった。