『人生の短さについて知らなかったことの数々を』
【十年前】
――本当に、よくわらう男だとおもっていた。
「君、僕をよく見てるだろう?」
四月も半ば過ぎた、風の強い日のことだ。
長谷部国重に声をかけたのは、よくわらう男、歌仙兼定そのひとだった。
珍しくひとりで、いつもの笑顔ではなく、射抜くように長谷部を見ていた。
かれらは同じ大学の学生だ。
長谷部は地元の名士が買い上げた寮住まいで、そのすぐ向かいのマンションに歌仙は独り暮らししていた。キャンパスの中でも外でも、歌仙はいつも華やかな集団の真ん中にいて、長谷部はときおりその姿を遠くに眺め、じぶんとは縁のない人間だと決めつけていた。
だから、話しかけられるとはおもってもみなかったのだ。
立ち尽くす長谷部に、歌仙はふと表情をあらためて微笑んだ。
「何か文句があるわけじゃないんだね? 僕の友だちが騒がしいから叱られるのかとおもってた。そうじゃないんならいいんだ。いや、煩いのはよくはないからもちろん言っておくよ。呼びとめてすまなかったね」
長谷部は歌仙兼定の声に、耳に快いやわらかな抑揚のあることを知った。造物主という名の神がいるのだとして、それはこの男に多くのものを気前よく与えすぎている。
しかも、すぐ横を通り過ぎる肢体からはえもいわれぬ薫りがした。曇天の下、艶やかな花の香気に長谷部は思わず息をのむ。と同時に突風がそれを蹴散らした。
癖のあるやわらかな髪が、埃っぽい風に巻きあげられるのを長谷部は目を細めて見た――気づかれていたのなら、もうこれで最後にしなければとおもいながら。
黄金週間明けのある日、歌仙兼定の父親が妻の愛人を殺し、妻はその後を追って自殺したという噂話が学内を駆け巡った。
長谷部はそれを耳にして、ちかごろあの姿を見ない理由を察した。講義に出てこなくなった歌仙は大学をやめて郷里の熊本に帰ったにちがいない。もとより、じぶんとは縁のない男だ。ただいくらか、みぞおちのあたりに痛みに似た不快感が襲い来て、その後もずっと居座りつづけた。
日々はつつがなく過ぎていった。
鈍い疼痛がみぞおちに残ったが、それを忘れるようつとめた。
そんなある日、長谷部は青白い顔をして俯き加減に腰かける歌仙を見た。はじめ見間違えかとおもった。歌仙はつねに姿勢のいい男だった。マンションを引き払うために立ち寄ったのかとおもったが様子がいくぶんおかしかった。
この道を通らなければ家に帰れない。
長谷部はそう言い訳をした。
空が暗い。五月だというのに湿った空気が冷たくて身震いするほどだ。それに、雨がふりはじめる直前のにおいがした。
歌仙兼定の目の前で足をとめる。ああ君か、と顔をあげた。
「傘は持っているのか」
「いや」
首をふる顔をみなかった。この男のこんな顔はだれにも見せてはいけないとおもった。じぶんでさえも、見てはならないとかんじた。
「降る前にいくぞ」
背を向けるとおとなしくついてきた。
歌仙兼定は、いったんは地元に帰って葬儀に出たこと、父親は不起訴になったこと(噂話のような過激なことはまるでなかった)、それでも当たり前に父親の事業が芳しくなくなったこと、何より母親がこの世にいないことなどをぽつりぽつりと、常とはちがう抑揚のない声で漏らした。
とりまきもいなくなったし、付き合っていた彼女にもふられたと歌仙はわらった。そのときだけは笑顔だった。裏切られた悲憤ではなく、情愛のうすさを嘲笑うそれだった。
時系列の乱れも事実関係の混濁もなく、客観的なそれをだけたんたんと述べるところがどうにも痛ましく、長谷部は歌仙の声をだけ聴くようにこころがけた。
話し疲れたのか、こどものように眠る歌仙のそばを離れがたく、長谷部は生まれて初めてずる休みした。
五月雨が、かれらと世界を隔てていた。
歌仙の母親は恐ろしいほどにうつくしかった。
浮気してないと僕はおもってるんだとつぶやいた。キリスト者だったしね。でも、父親は他の男といっしょにいるだけで堪えられなかったみたいだけれど。
長谷部は、故郷に残してきた母親のかおを思い出す。若いころは綺麗なひとだった。夫が亡くなってからは暗い色の服ばかり着るようになった。
よくわらうひとだった。なにがおかしいのか、若い娘のようにころころとわらう母が変わったのは、夫が異国で亡くなったと知らされたときからで、さらに拍車をかけたのは数年前に長谷部の姉が子どもを残して出奔したせいだ。
翌日も、その翌々日も、歌仙は長谷部の部屋から外に出ようとはしなかった。三日ほど過ぎて真夜中、ふらと外に出たりしたようだがそれだけだ。それでいて、だらしなく寝転がっているわけではなかった。たいていは、本を読んでいるか何か思い詰めたような顔をして台所に立って料理をしたり鍋を磨いたりしていた。
歌仙は、君の本棚には新古今和歌集もないのかと頬をふくらませ、セネカが読みたいとつぶやいた。
「人生の短さについて」
さすがにそれを今の歌仙が読むのは不適切ではないかと長谷部にはおもわれた。いや、これ以上なく適切なのかもしれないが。
長谷部はそれを大学横の古本屋で購った。ねえ、こんなところに書き込みがあると歌仙はうれしそうな顔をした。新品が書店になかったのが幸いしたようにおもえた。
前のように笑わなくなった歌仙が、ようやく周囲に対する「怒り」をあらわにするようになったのは一月半ほどたったころのことだった。長谷部は、ああ本当に酷いはなしだとくりかえした。じっさいむごい誹謗中傷ばかりだった。両親を愛するほこりたかい歌仙には堪え難かったに違いない。歌仙はじぶんと家族が蒙った理不尽に腹を立てるだけでなく、この世のすべてに怒り狂っているようでもあった。
歌仙兼定は不正を憎み、怠惰を嫌い、弱さをも恨んでいた。頗る頭のいい男らしく、その舌鋒もまた鋭かった。それこそ、気の弱い人間であれば斬り殺されるほどの恐怖を感じたにちがいない。
あれほど機嫌よく、いつもわらっていた男の豹変に、長谷部は後ろ昏い愉悦をおぼえるほどだった。それとともに、はじめて口をひらいたときあんなにも整理をつけてはなすことの出来た歌仙が「変わった」ことの意味もかんがえた。
梅雨空を眺める歌仙兼定のよこがおは翳りをおびてうつくしかった。
僕は洗礼を受けなかったと呟いた。
長谷部は歌仙のしろい額をながめた。そこに清らかな水の滴るのを夢想した。
酔っぱらったときにいちどだけ、歌仙が泣いた。死んでしまった母親を求めるでなく、父親を恨むでなく、人目を避けて地元から逃げ帰ってきた己の無様を憎んでいた。
君のご両親は、と一度だけたずねられた。
長谷部は短く、最低限の情報だけ伝えた。
歌仙は、そう、とこたえた。
そのころには、歌仙の声の抑揚でなにをおもっているのかわかるようになっていた。おなじ短いことばを歌仙が口にするだけで、言葉が色彩をもち、意味まで複雑多様になるのを長谷部はひっそりと愉しみにしていた。
長谷部は、いつもひとの輪の中心にいた歌仙を狭い部屋に閉じこめておける悦びを知ってしまった。
歌仙は歌仙で、部屋の外に出なくともモノは手に入るし人間というものは生きていられるのだねと目を丸くしてつぶやいていた。
ねえ、これ君に似合いそうだと高価な時計を指差す歌仙は、誰に会うでもないのに前と変わらぬ格好でいた。憂さ晴らしとして本や衣服を買い漁っているのかとおもっていたが、それが普段の歌仙のくらしぶりのようだった。
そのことに気づき、長谷部はひそかに吐息をついた。
じぶんが大学の講義に出ているとき、この男はこの部屋で何をしているのか――長谷部はそれを知りたかった。もしかすると泣くこともあるのかもしれない。あのまっすぐに伸びた背を丸め、ちからなく蹲る歌仙兼定を想像するのは容易ではなかった。
それでも、魘される姿を見たことがある。起こしてやったほうがいいとおもうのに身体がうごかない。触れて、目が覚めた男になんて声をかけたらいいかわからなかった。魘されていた。それだけのことを告げることすらこの男の矜持を殺ぐことになるのではないかと危ぶんだ。手洗いに立つ。触れると想像しただけで痛いほどの欲望がせりあがる。そうして己の吐き出したもので手を汚す。隣りに眠るおとこをまもるように。そのじつ、言葉どおり自分を慰めるためのそれでしかない行為に溺れている――長谷部、名をよばれた。はせべ?
「エアコンをつけてくれ、寝苦しい」
慌てて手を浄めて部屋に戻ると半身を起こした歌仙がそう言った。
「勝手につければいいだろう」
「君の部屋だ」
「好き勝手しておいて今さら何を」
「僕はまだ、君がエアコンをつけたのを見たことがない」
そのとおりだった。
歌仙兼定は長谷部国重の「客分」であるという態度を崩したことは一度もなかった。黙ってそのとおりにすると歌仙は長い前髪をかきあげてゆっくりと横になる。ありがとう。ほとんど息だけのような声のあと、数分もたたないうちに健やかな寝息が耳にとどく。長谷部は目をあけた。夜の底で、なぜ俺はこの男を見飽きないのだろうと呆れながら規則正しく上下する胸を、暗がりに白い手首を、いかにも意志のつよそうな眉をながめる。
長谷部はふと、なぜ自分は立派なおとなの男ではないのだろうとかんがえた。とりまきはいなくなったと嘲笑ったが、この男をほかのものたちがほうっておくはずもない。じっさいはじめのころには端末に不意打ちの電話がいくつもあった。そのたびに歌仙はベランダに出て話しをした。ときどきいずみだのみかづきだのさもんじだのという名が聞こえた。長谷部は知らぬふりで敢えてその背を見ないようにした。いずれにせよ、歌仙はじぶんの居場所を「大人たち」に告げているはずだ。だとしたら――長谷部の出来ることはごく限られていた。
決めてしまえば落ち着くものとおもったが、そうでもなかった。長谷部はみぞおちに手をやった。そこにある空虚を埋めるかのように。
長梅雨のうすら寒さを、陰鬱な空を、この年ほどありがたくおもったことはない。
大学が休みの日にも、君は出かけないのかいと歌仙は問わない。また雨だよとつぶやいて、長谷部をふりかえる。
ああそうだな。
長谷部のこたえに歌仙がつづけた。
僕は雨がきらいじゃない。
耳に快いはずの声が、胸裡をどうしようもなくさわがせた。
夏休みに入ればもっと時間を自由にできる、少なくともふたりきりでいられる時間はずっと増える。長谷部がそう思いはじめたころ、歌仙は書置きひとつで出ていった。
「長々と世話になった。実家へ戻る。ここにあるものは売るなり焼くなり君の好きにしてくれてかまわない。僕のことは忘れてくれ。」
長谷部は泣いた。
ほとんど家にいなかった父親が亡くなったと知らされたときですらこれほど涙が出なかった。
それとともに、あの敏い男が彼の欲望に気づく前にこの部屋をあとにしてよかったともおもえた。
積み重なった本や食器や衣類などすべて、慈善団体へと送りつけた。
ただひとつ、歌仙が持ち出したものがあの文庫本だったことに長谷部は気がついた。あの男らしいとわらった。
「このような者たちの快楽そのものすら不安定であり、様々な恐れから落ち着きを失い、歓喜の絶頂にある最中に、「これがいつまで続くだろう」という不安な裂いに襲われる。こんな気持から、かつて幾人かの君主が自己の権力に涙したし、また、自己の幸運の大きさに喜ぶというよりも、いつかはその終りの来ることに脅えたのである」
夏休み、故郷に帰ると母が言った。
国重、あなただけはちゃんとしてほしいのよ、せっかくいい大学にも行かせたんだから。
長谷部はうなずいて微笑んだ。
母親を安心させたかった。
忘れてくれと書き残した男のことは、相手の望みどおりに忘れることにした。
やりすごすことのできなくなった胃の痛みは薬を飲んでごまかした。